冬の花火

 

 私は文字だけでその向こうの人間を好きになってしまうほうだと思う。ひごろ文字だけで接している、センスがよくて「素敵なひとたち」は、その、言葉の選び方や並べ方、そこから自分に向かってしっとりと映し出されてくる思想や情感といった、まだ名付けられない、「あなたのもの」とも名付けられない、ましてや私のものとは呼べないものに惹かれるのだろうと、解釈したがるのだろう。あのひとたちは頭がよく素敵だから、しかし、そんな高尚なものではない。私は文字の向こうにいる人間をいつでもちゃんと思い浮かべているのだ、それはどんくさいことだからあらためてネットに書く必要もない。

 小学生になってテレビゲームやサッカーボールやバット、グローブが身の回りにあるのと同じようにもう、私の世代の生活にはインターネットにつながっているウィンドウズのパソコンがあった。SNSという言葉がひろまる前から、そのような場所で私はずっと自分にそのときどきの名前を名付けてきた。むかしの映画のようにたとえるならば、こんなパーティはつまらないから抜け出そうぜ、という感じでぐうぜんに仲良くなったひとと連絡先を交換する。手紙の行き来のなかで誰かは私のほんとうの名前を知る。それは相手も同じ。あなたの名前は自分の通っている学校にも何人か存在するありふれた固有名詞だから、すくなくとも、三十八歳になったいまでは中学二年生のころにやりとりしていた高校二年生の彼の名前を忘れている。メールアドレスにdevilという単語が入っていたことは覚えていて、だからといって私は彼のことを記憶のなかで「悪魔くん」などと名付け直すことはしない。仕事のやりとりをする相手のプライベートのアドレスをふとした理由で知ることもあるが、ほとんどの人間が、tanaka0127@xmail.com

みたいなやつだ。でも当時はみな、ああいう「かっこいい」アドレスを自分で考えて使っていたのだ。富山県も工業高校も当時はよく知らなかったが彼はそういうところにいた。自分が高校二年生になったときにはそれが、どれだけ輝いていて充実した季節なのか知った、自分が中学二年生だったときだって、その想像はできていた、彼はどうしてこんなに私に、私と仲良くしてくれるのだろうと不思議だった。高校でいじめられているのではないか、学校に友達がいないのではないか、ほんとうは部活が楽しくないのではないか、いくつかのことを考えながら、文字面では明るくて温和でのんきな彼と、会話のように手紙をやりとりした。そのやりとりは思春期の私が現実で苦しみ喜んでいた若い恋愛とは異なった方向性をもった感情を自分の心にもたらした、うんと歳をとるとむしろ彼とのやりとりのほうが恋愛だったように思える、それは過去の自分が、ちょっと前までの自分がとうてい恋愛とは名付けられない住所で起こっていることだった。それを悪魔的とは思わない。

 十代の半ばをすぎて二十代の前半あたりまで、私はいわゆるネカマのようなふるまいを文字でしていた。令和のいまでは自分に対しても相手に対してももう、めったに使われないような言葉だ。いまの私はネカマでもなんでもない、かといって中年のおじさんであることを強調したりもしない。健康診断ではいつも尿酸値やコレステロールや肝臓の値が悪い、頭頂部は順調にせりあがっている、言うまでもなく腹はぽこんと突き出ている、居酒屋に行けばおしぼりで顔を拭く、夏場なら脇も拭く、ビールを飲めば、はばからずげっぷもする、呑んだ帰り道、酔っ払って駅のトイレでうまく小便できない、年下の女性と少し気をゆるめて語らえば、かならず失礼なことを口にして、翌朝うじうじと落ち込む、その気持ちをラインにしたためてさらに面倒なことになる、そんなことは文字にしない、いっぽうで、自分のことをあからさまに女性であるように思わせるような自己演出もいまではもうしない。あのころ、いまでも、現実の自分は常に女性の肉体や感情を求めていたのに、文字ではネカマだったことを不思議とは思わない。自分と同じような文字がたくさんあったことを私は知っているし、少なくとも私は、ふりかえれば私は、現実ではいつでも畳の匂いがする恋愛をしていたが、中学二年生のころに富山から受け取っていた、送っていた恋愛と似たようなものを心のどこかで求めていて、その住所を探していて、その可能性を高めるために、女の子のふりをしていたのかもしれない。そんな自分が悪魔的だと思われてもいい。

 悪魔がもしケダモノに寄った存在であったなら、隣の部屋に住んでいる大学生の若者たちがそうで、木造のこの家では、焦って急いで不動産会社に探してもらったこの部屋は、角部屋で広いしペットも可なのだけれど、隣の音がつつぬけで、彼女ら、彼らは毎晩悪魔の宴をしている。学生が住むには広い場所だから溜まり場になっているのだろう。隣の部屋から楽器の音や歌声や、酒を飲むことを盛り上げる歓声やわいせつな声が聞こえてくることはいい、私だってそうだった、喧嘩も仲直りも、次の部会で何某の言動を取り上げてどう訓戒するかの会議もいいだろう、他人の楽器を盗むのはたしかにまずい、そんなことより、部屋の中で花火をし始めたときはおどろいた、せめてベランダでやってほしい、私はそうした。とてもさみしい八月のことだった、もっとさみしいことがあった。

 若者たちは数日間長野にスノボーをしに行ったようだから(ほんとうに何もかもつつぬけなのだ、この部屋に越してきて私は思春期のころのようにふたたび文字のなかに引きこもった)、久しぶりに完全に、静かな部屋のなかにいて、誰に読まれるでもなく読ませるでもない自分の離婚経験についての日記をくだくだと、書いたきりのブログを、久しぶりに書いています。

 

 あのひとはとても素敵だ。私はあのひとの文字からあのひとの暮らしを思い浮かべる。あのひとが料理を作った写真を投稿したらすぐにボタンを押す、あのひとが面白いことを書いたら三つにひとつくらい面白いと思う、あのひとが少し真面目な考えを主張したら朝と晩に二度読み返してなにも反応しないでおく。賛成するためにはどのような知識を身につけるべきか少しだけ寝る前に考える。でもあのひとは私には格別の関心がない。あのひとは他人に対してそっけなくて、だけどいつもユーモアを忘れずに接する、だから人気者だ、私はあのひとのいわばファンのひとりなのだ。あのひとは他人のださいところや頭の悪いところに聡い部分がある。私はあのひとがときどきこわい。あのひとは私にたいして関心がないはずなのに、私はあのひとに嫌われているんじゃないかと思ってしまう。あのひととDMをする。ここが正しい住所なのかわからない。あのひとが私のことを女性だと思っている。そんなことは十年以上ぶりだった。あのひとは私の文字からその向こうにある乳房や臀部を架構、仮構している。私はあのひとの下心に応えられないのに私は自分の現実を明かさない、そんな自分を私は悪魔的とは思わない、それは、あのひとと私がほんとうはよく似た心と体を持っているからで、あのひとの悪魔的な部分をゆるせるのは私だけかもしれないと思うからで、だから、そう思っている私のそういう部分が、醜く悪魔的なのだと責められたらそれは、仕方ないかもしれない。

 あなたは醜くなく、小悪魔であり、けっきょくは私に関心がない。私もまた、あなたから見て脈なしの存在で申しわけがない。土台のない話なのだ。

 私はきっとあのひとと同じくらい、異性愛者の男性用のアダルトビデオについて詳しいだろうし、あのひとと同じように、中学の野球部の最後の大会では気合を入れて頭を五分刈りにしたし、高校生のころは腰パンもした。

 あのひとはメールをすぐに返してくれるのに、私が「夫」として登場している、全六回もの記事に分けたブログの日記を読んでくれてはいない。その日記には短文のSNSにはしたためられない私の人間性がすべてぶちまけられているのに。私はつまらなくてすっぽかされた気持ちになる。私はあのひとの一八、一九ごろに書いていたブログまでぜんぶ読んでいる。若いころのあのひとは「人間は演技的なことをして自分を物語の主人公のように仕立ててはいけないと思う」と書いていた。はたちになる前からそんなことを考えていたあのひとが素晴らしいと思う。だけどその考え方が自分に向けられると、私はとてもさみしくなる。私が、家のベランダで、ひとりで、線香花火をしたり、暗い公園のベンチに座って、ひとりで、からあげ弁当を食べていたことをあのひとは疑った。そういう投稿をSNSに書いていたのだ。あのひとは小悪魔的に書いてよこした、キャラ作りだと。私はとてもさみしくなった。とても。さみしくなって涙がぽろぽろこぼれた、缶チューハイをにぎりしめながら。線香花火をしたり、弁当を食べているときも、そのときどきの辛さとさみしさで泣いていた。あなたから「キャラ作りだ」と言われたとき、私は、あなたは、あのひとはそんなことはしないのだろうな、と思って自分が気持ち悪くてなおさら泣けた。私は三十八歳のおじさんだけど、あの夏の日、あの秋の日にそういうことをしていたということは、嘘じゃないよ、演技じゃない。私は、SNSで演技していない。だけど、言葉に、文字になればすべては、現実から離れて、読まれたい感情と読みたい感情のコーティングによって、そのときのさみしさが、私のものでも、あなたのものでもなくなってしまうものね。私は、おそらくあなたが思っているほど、ぼんやりしていないよ、少なくとも、そんなことをこうして伝えられるほどには。「花火しているとき、ほんとは彼氏でもそばにいたんじゃないの?」って、ばかかお前は、いねーよ、むしろオレは彼女がほしいわ、いっしょに花火したり映画みたりする彼女がほしいけどできねーから、ひまつぶしに性別をぼやかしたままあんたとメールしてるんだよ、そう返信したらもうあのひとからメールは来なくなるのだろう。私は名付けられない住所を失ってしまって、もっとさみしくなってしまう。

 あのひとは私の家にねこがいることすら最初は疑っていた。たしかに他の人がそうするように、私は自分の飼っている動物の写真をSNSに載せることはしない。さすがに、さみしい、を通り越してひどいんじゃないかと思った。ねこがいる生活を文字にすることは、文字の向こうにいるねこを、あのひとに想像させないものなのか。私のキャラ作りしか想起させないものなのか。私が無意識になにかキャラ作りをしているとしたら、その最大のところをあのひとは見破っていない、そんなあのひとを私はかわいいと思う。妻と一年半かけて離婚して、ねこ一匹引き連れてやっと別居を始めて、そのねこは隣の学生たちが留守にしているからか、今日はとても機嫌がよさそうで、だから私も安心して、こんなふうにいま、ブログを書いています。

 

 ここからの内容は、その学生たちが留守だった夜に起こったことで、コピーして、新しい記事にペーストして、あのひとに読んでもらう予定です。

 

 映画をひとりで観たあとにいい気分になって私は「四文屋」に入った。梅割り焼酎という酒があって、私はそれを呑んで気晴らしをするとともに、自分の体調をはかっている。キンミヤ焼酎に梅味のシロップを入れただけのこのメニューはひとり三杯までで、この日はしっかりと三杯を飲み通すことができた。次の日に大事な用事や仕事があったり、心身になにか不安な影があるときは二杯にとどめておく。私は二杯目の途中あたりからずいぶん酔っ払ってしまう。なにせ焼酎を原液のままごくごく飲んでいるのとそう変わりはないのだから。この日は体の調子がいいのか、その日の仕事は楽なほうだったから疲れていないせいか、すいすいとハラミやレバーといっしょに「梅割り」を胃におさめてしまった。しかし調子に乗ってしまって、酔いも後押しし、帰りのコンビニで冷凍食品のニラレバ炒めやサントリーハイボール缶のロング、しかも「濃いめ」を三本も買って帰宅したのがよくなかった。家に戻ってからねこに餌をあげ、タブレットでお笑いの動画とツイッターを交互に観ているうち、ハイボール缶の三本目を半分残したところで私は気絶するように眠りこけていた。ほんとうだったらそれはよいことだった、なぜなら隣の部屋の学生のばか騒ぎに煩わされずに自動的に眠りの世界へ行けるのだから。さいきんは深酒をする理由がそんなふうになっているけど、そのように理由をつけて酒をばかすか飲むことはアル中の前兆というか症状だと聞いたことがある、それで、その夜はバカ学生たちも留守にしていたわけだし、こんなふうに自暴自棄のようなかたちで入眠する必要はなかった、いま思えばもったいない夜の過ごし方をしていた。「梅割り」は二杯にとどめて、「濃いめ」は二本に留めておけば、いい感じに酔っ払いながら、ねこと静かな夜を過ごすことができたのだった、風呂にも入れた。

 深夜二時ごろにお決まりの脱水症状で私はむくりと起き上がった。起き上がったというのは正確にはうそで、起き上がれず、喉の渇きと、そして喉から腹にかけてのむかつきで、寝転がったまま身をよじることしかできなかった。深夜だからねこが元気に近寄ってくるけど、ねこは水も薬も持ってきてはくれない。吐き気のピークを伏せったままやり過ごし、これなら少し立ち歩けそうだと判断して私はよろよろと冷蔵庫の前まで行った。飲み物が何もなくて私は絶望した。そういえば今日はもともと、映画のあとにスーパーに行って家で飲もうと考えていたのだった。いろいろ切らしているし。私はこういうときに水道の水が飲めない、効かないたちだ。ペットボトルのお茶なんかを一気に一リットルくらい体に注がないと内臓のなかで起きている鈍い火事がおさまらない。私は上着を着てふらふらと外に出て行った、寒く冷たい空気が肌に張りついて辛い気持ちを多少晴らした。いちばん近くにある自販機は公園のそばにある。秋にからあげ弁当をひとりで食べた公園だ。

 ベンチに座って「いろはす」を飲み干した。「いろはす」のペットボトルはやわらかくて、こういうときむしゃくしゃにつぶしてしまう。公園は静かで、寒くて、もちろん誰もいなくて、住宅街は眠りのなかにあって、私は頭が真っ白になっていた。煙草を一本吸う。すると大きな卵のような物体が後ろの藪の中に落下してきた。「いろはす」のペットボトルが藪に投げ捨てられたのと同じようなさりげなさだった、少なくとも近隣の住民が起き出すことはない。そこから四歳くらいの子供をかかえた男が出てきた。親子のようだった。親子の耳たぶは異様にくびれていて、地球人ではないように思われた。だとするとこの卵型の物体は宇宙船だった。じっさいそのようだった。

 嘘ではない。大酒を飲んで、そのあと最悪の気分で起き出し、すべてが静かになったあとに起きたことなのだから。

 私は訊いた。

「どこから来たのですか」

「富山です」

 私は言った、「うむ」

 地球的に言うと彼らは私たちにとって悪魔のようなものであるらしい。慎みがあるために日頃の接触は避けている、もしくは人間にまぎれこんでいるけれども、急用のために悪魔のまま、ここに立ち寄っていたという次第だった。

 急用というのはもちろん、父に抱かれている息子の急病のことだった。悪魔がいつでも常備しているはずの薬を切らしてしまい、途方に暮れているという。富山の薬売りでも準備できないもので、父親はとにかく外で起きている人間をセンサーで察知し、その人間に頼ろうと考えていたようだ。

 父親はまがまがしいツノや突き出たキバや、お尻から生えている先のとがったシッポを私に見せてくれたが、それは「キャラ作り」のようだった。それでも、くびれた耳たぶは生来のものであるようだし、彼らが私たちにとって悪魔であることは間違いないようだった。いかんともしがたい事実である。しかし、どのように悪魔なのかということは、悪魔的言語による悪魔的論理と悪魔的価値観でしか解することができないことらしく、人間である私はその追及をすぐに諦めた。そもそも早急の用だったので、こちらが遠慮したというのもある。とはいえ私は、人間の蛮行によって日々汚されている地球それ自体のことや、自分たちの知らぬ間に住処を奪われたり生態系を変化させられたりしている小さな生き物たちのことを想像した。

 深く酔ってそれが醒めたあとは、そんなことを考えてしまうものだ。

 悪魔的な薬とは、聞くに、たしかに難物だった。そこらの草のように採集できるものでもなければ、製造の仕方は私には少しもわからないし、人間的な商店におもむいて購入できるものでもない。いや、昼間になんとか手に入れようとしても、許可証が必要であったりするのだろう。せめて季節が冬でなければ。いや、しかし私はひとつ思いついたことがあり、悪魔的な熱にうなされている悪魔の子の額をひと撫でし、帰路をたどることにした。

 私は二階の自分の部屋に入って、じゃれてくるねこを無視し、そのままベランダに出た。手すりを伝って、隣のバカ学生の部屋のベランダに入った。あの悪魔の父親はとてつもない冒険のつもりで公園に突っ込んできたのだと思う。だとすれば私もそれに対してとてつもない冒険心で応えなければいけない。それが人間的な義侠心ではないか。

 深く酔ってそれが醒めたあとは、そんなことを考えてしまうものだ。

 むしろそんなときに大胆なことをしでかしたりしてしまう。

 たとえば、もう自分の思い出のなかにしかいないはずの誰かに電話をしたりメールをしたりしてしまうのは酔い始めや酔いの最中ではなく、じつはひとしきり酔ってしまったあとなのではないだろうか。

……ともあれ、そのとき私は自分に酔っていたのだと言える。

 そんなふうに言えば、うまいはなし、とおちつくだろうか。

 ともあれ。悪魔的な要請に応えられなかった場合、悪魔的な報復を私が、いや人間が免れないという可能性だけは、火事を消すためにいっぱいに注がれたバケツの水のように、自分のなかで大事にかかえていたので必死さがあった。もう自分の内臓で起こっている火事のモヤモヤは消し飛んでいた。

 あいつら、なんでもかんでもつつぬけなのだ。「いっつもここの鍵開けっ放しにしちゃうんだよな」「不用心だよ、何回も言ってるじゃん」「ユリエが家の中で煙草を吸っていいって言うなら不用心じゃなくなるよ、何回も言ってるじゃん」とか。私はすんなりと隣の部屋に入った。もう自分の思い出のなかにしかないはずの匂いに包まれた。私は雑然とした部屋から花火セットを見つけた。それを胸にかかえて、少し疲れてしまい、ひきっぱなしだった布団に寝転がった、自分の部屋と同じ天井を見つめた、同じ天井であるはずなのにそれももうほんとうだったら、自分の思い出のなかにしかなかった。

 こんな部屋でいろいろと傷ついたり傷つけられたりしたことがふと思い出された。それが私の現実だったのだ。SNSに自分の現実などはない。文字はすぐにわかりやすい物語になってしまう。そう思っているのに、それに依存してしまうのが私の世代だったわけだ。

 公園に戻って父親に花火を渡すと、彼は悪魔的な手際で置き花火や手持ち花火を分解し、火薬を採取し、悪魔的な呪文と悪魔的な用具を使ってそれを調合させていった。私は手持ち花火をひとつつまんで、ライターで火をつけた。白い光が、紅に、次に青くふきだしていく。あのひとは、悪魔のそばでこんなふうに丑の刻も過ぎたころ、私が花火をしていることを信じてくれないのだろうと思った。でもこれが作り話や脚色のある文字だとして、私はどんなキャラ作りをしているというのだろう。

 あなたも気晴らしにやりませんか、と、作業を一通り終え調合した火薬の悪魔的錬成を待つばかりとなったらしい父親に私は話しかけた。父親は薄く微笑んで頭を横に振った。逆に私が呼びかけられ、私は芝生の上に寝かされた悪魔の子の腹部を見た、悪魔的紋様と悪魔的な色をしたその腹部は、何かの患部であるわけではないらしい。悪魔のへそには「栓」があって、小さなそれを父親は子供の腹から抜いた。父親はそこに錬成の終わった薬をそそぎこんだ。すると、子供の腹部からは、いかにも具合の悪そうなあの悪魔的紋様と色彩がすっと消えていき、おなかは小川の小石のように真っ白な肌となった。

 そして、その肌はたくさんの花火をぼんやりと映し出した。関東に住んでいる人間的にたとえるならば、隅田川の花火大会のいちばんいいところと、江戸川の花火大会のいちばんいいところと、立川の花火大会のいちばんいいところが、三重写しになってふかふかぱちぱちと人間の世界のかがやく色のすべてをそこに散らしているようだった。

 自分の表現力のなさが悲しくて泣けてくるが、そのときの私は、

「こんなに綺麗なものを見たことはありません」

と父親に言いながら、安心した気持ち、希望に満ちた気持ちで子供を見下ろしながら、しとしと、泣いていたのだった。

 腹部のそれはもちろん薬の効いている証拠だった。花火大会がしずかに終わってそのとき、子供の腹部には悪魔的な紋様と悪魔的な色彩が、いかにも健康的にもどっていったのだ。人間も悪魔もかわらないその素直な肌をやわらかな繊維の水色の服にふたたび隠し、安らかな寝顔になった子を抱き、父親は礼も言わずに大きな卵の中に戻っていった、そしてそれは静かに飛翔した。礼も言わないのはどうかな、と私はいっすん思ったけれど、悪魔的なお礼がきっとそのうち私の心の中におりてくるのではないかと感じた。「悪魔的なお礼」という字句が必ずしも加害的とは思わない。

 私はまたベンチでひとりになって、残りの花火に火をつけようかと思ったけど、やめた。花火を眺めているときの気持ちは、きっと何かを思い出す気持ちで、何かを思い出すことは、何かを物語にすることだ。たとえば。この悪魔的出来事は家に帰って眠ったらすぐに忘れてもいい。誰かに語らなくてもいい。文字にしなくてもいい。酒に頼らなくても人間は何かを忘れられる。それでも、忘れたくなかったのか、そう、いま判断することはまさに物語化だが、私はベンチから離れられなかった。空が白んでくるまで、ここに座っていようと思った。煙草はたくさん残っている。きっと今夜は悪魔的社会において異様な夜なのだろう、あの父親だって子供の急病の背景に、もっとすさまじい現況をかかえているのかもしれない。民族浄化の暴力で、よりにもよって、病院が襲撃されたというニュースを毎日目にする。またほかの悪魔が、私を察知して何かを頼ってくるかもしれない。そんなふうにベンチで繰り広げた妄想は、まさに物語化だが、そんな私のことをあなたが人間的だと思ってくれるならいい。

 

 

 あのひとは私のブログを読んだ。私は離婚の日記をふたつの理由から削除していた。あのひとはこの文章をとても面白いとメールに書いてくれた。「序盤がよかった。前から思っていたんだけど、ミチさんは酒飲みなんだよね。飲み過ぎちゃいけないよ。でもこれはミチさんの『キャラ』じゃなくて素、だよね。あ、この前のこと、まだ気にしてる?」気にしてないよ。「悪魔の宇宙人の話も、僕は信じるからね。ミチさんの友人たちがみんな作り話だと言っても僕は信じておく。いい文章だったね。悪魔の子供がいまごろ元気に走り回っているといいね」

 私の足元でねこが、餌をくれと走り回っている。べつにさ、こんなこと信じてもらえなくていい、こんなこと、こんな。そんな、いじけた気持ちが、落ちるすんぜんの線香花火の、ぷっくらとした火の玉みたいに灯ったとき、私はまたぽろぽろと泣いてしまう。角ハイボールロング缶「濃いめ」もう一本くれ。あなたは私が泣いている姿を読んでくれた。この涙は、あなたが読んでいる「私」も、寓話じゃないよ、ただの文字。

 

 

 

 

むきーっと暴れてぎゃーっと泣いてしまいそうな日記

1月3日 (水)

 昼間、「オレもこういうことやりて~」とか呟きながらNHKの「俳句甲子園」の特集を、お雑煮にモチのかわりにうどんを入れたものを食べながら観る。まるですでに大学3年生のように顔が落ち着いている(顔が落ち着いているって伝わらんか)高校生の青年にフォーカスがあてられていたが、この子の番組への受け答えがまるで大谷翔平選手のように整っており、その整い方に危うさを感じたり、ほんとうにはたち越えてるみたいじゃんと思う。そういえば夏に本物の甲子園を見ていたときも私は、慶応の眼鏡の選手を見て(まるですでに大規模なイベントサークルの代表みたいな風格だな)と思ったのだった。クソガキだった自分と比べているのだろう。

 文化部的な中高の青春はほんとうに私とは縁の遠いもので、私の通っていた高校には演劇部や写真部があったが、前者は変わり者の集まりとみなされていて、後者は撮り鉄の大柄な子以外は幽霊部員ばかりで実体(実態)が無いに等しく、いま思えば私は演劇部の人たち(がしていること)にはひそかな憧れを抱いていたかもしれない。じつは私は入っていた運動部の面子といちど映画を撮ろうと発起して台本を書いたことがあるのだ。もちろん、この計画は台本を書いただけで終わった。だから私が小説の賞をもらったとき、周囲の反応はたいがい「え、そんなことしていたの?」という具合だったが、高校の友達たちはわりと納得してくれた覚えがある。また、大学に進学したとき、そこでの「写真部」とはおしゃれな人たちの集まりだったので、そうなのか~、と思ったものだった。

 俳句甲子園はただ句を披露するのではなく、その鑑賞や解釈を交わし合って句の良しあしを吟味していくようだった。それはとても楽しく刺激的で、たしかに勝ち負けがつくことだろうなと感じる。まだ大人になりきれていない16,7の時分にそんなことをして負かされたら、むきーっと暴れてぎゃーっと泣いてしまいそうだなあと思った(もしかしてオレはいまでもそうなのではないか、と思うようなことが一年に一度はかならずあるのだが......)。だれもが自分にとってとても安心で安全な領域で、何かを創る自分が何かを創る自分を大切に大切にできる時分に、こうして他者とぶつかっていくことは青年たちの今後にきわめて大きなものをもたらす、と考える。まあ私も、平成生まれのキッズらしく十代のころはいろいろとネットに公開して数多のジャッジを受けたものだった。それでも、ネットに何かを放流することと俳句甲子園はまた異なることである。

 高校生のころ、自分にとって詩というのは俳句や短歌、現代詩ではなく、小沢健二や曾我部恵一や佐藤伸治であったなあ。

 夜、晩酌したかったのだが、機を逃して爆睡。この日は朝起きるのがとても早くて昼過ぎには思わず昼寝した。起きたらかなり元気がみなぎっていたのだが、かりそめの元気を夕方ぜんぶ消費してしまったので夜は爆睡。

 

1月4日 (木)

 石川へ帰る。帰る前に大きなデパートに立ち寄って大きな本屋に行き、『世界』の1月号とつげ義春の漫画と和山やま『ファミレスいこ』と、結城正美『文学は地球を想像する』(岩波新書)を買った。本の初買いだ。『世界』の12月号を地元にいるとき、年末年始休業に入る直前の図書館に飛びこんで借り出していた、12月号ということは11月の上旬に出版されたわけだが読もう読もうと思っているうちにけっきょく年末になってしまったのだった。心や周囲が完全に年越しモードになる前に実家でガザの特集を読んだが、ジュディス・バトラー「追悼のコンパス」はさすがに響いた。人文学的な自分、人文学的な考え方、というものが再確認された。コピーするか改めて購入しなければならない。ふりかえるべきは氏の『脆弱な生』であろうか。私にとって思い出深い本である。

 新幹線のなかで『ファミレスいこ』を読んだが、雰囲気がちょっとだけ不穏だったり、ファミレスでの客の会話の様子、バイトの先輩とのやり取り、そういうものが『シガテラ』以降の古谷実の漫画をほうふつとさせた。下巻への引きはどきんとする。その後目にしたネットの感想のなかに「クィア・ベイティング」という言葉がでてきて、仕事が始まったら同僚のひとりに講釈を受けたいと思っていたのだが、会うたび忘れてしまって、まだ聞けていない。

 そもそも北陸新幹線がガラ空きだったのだが、三が日が過ぎ、元日の地震で大きく揺れた金沢駅はなんだかとても寂しく元気がないように感じた。

 

1月5日(金)

 地震後の自宅や職場の様子はいろんなひとに同じ内容を伝えて、あらためてここに書くことが疲れる(疲れる予感をキャッチした)ので割愛する。ブログの日記をまた本にするときなどに加筆しましょう。ツイッターやラインで連絡をくださった方には改めて感謝を申し上げたい。私の住んでいる山の上は、今回のようなケースだとむしろ避難先となるような場所であって、誠にたのもしき山の上でありました。

 職場ではいつも会っている同僚のうちふたりと会った。さまざまな情報共有や状況把握をする。3日、風の強いときにかがんで煙草に火をつけたら垂れた前髪が燃えてしまったのだが、その話をしたらまったく同情されずに笑われた。よかった。日常の予感である。ちなみに燃えた髪はりさこさんにちょっと整えてもらったので現在まったく元通り。マジで気を付けましょう。

 夜はいつもの居酒屋に行く。

 

1月6日(土)

 夕方、崩れた本の柱をだらだら片付ける。年末にディスクユニオンチャゲアスの『スーパーベストⅡ』を買って以来、毎日聴いている。「SAILOR MAN」という歌が気に入っている。メルヴィルもa sailor manだからなんだか縁を感じてうれしいものだ。歌詞カードを読む前は、サビのSailor man, sailor manと歌っている声が「セイ!ロマン!セイ!ロマン!」と聴こえていて、セイ・イエスだけじゃないんだあ、とか考えていた。もしくは、「せいろマン!せいろマン!」と聴こえていて、シューマイ王国のせいろマンのことを想っていた。まあ、嘘だが......。そう聴こえたのはほんとうである。

 

1月7日(日)

 正月気分が終わったあとはずっと近所の町中華チャーシュー麺が食べたかったので、正午になったらすぐに家を出た。ラーメンの写真といっしょに、

 

これがオレの七草粥である。七草とはつまり、チャーシュー、チャーシュー、チャーシュー、チャーシュー、チャーシュー、チャーシュー、チャーシューのことである。

 

とツイートしようと思っていたのだが、チャーシューの数を数えたら5枚だったので中止した。誠に立派なやつであることよ。

 山の下に降りてイオンに行く。一階のサービスカウンターで煙草を買い、二階の小さな本屋をちょっとだけ眺めて、また一階の「ふれあいの広場」でぼんやりするのがルーティーン。「ふれあいの広場」というのはイオン的なデパートに必ず設けられている、テレビや自販機がある、座って休憩できるスペースである。地震の影響で「ふれあいの広場」は一時閉鎖されていた。代わりに二階をいつもより長い時間ぶらついた。おもちゃコーナーが狭くて、こんなに狭いんじゃ、この地域の子どもたちがめげるのではないかと感じる。だが、さいきんの子どもは、ヴィデオゲームはダウンロード購入で、タブレット端末がさまざまな電子おもちゃの代わりになるわけだし、モノとしての玩具はあまり欲していないのだろうかねえ。

 

1月8日(月)

 日曜の日中から、連休の最後は映画でも観たいなあと考えていて、観ようと思っている映画は朝の10時からだったので、早めに起きなければいけない。そんな日の前にかぎって、はちゃめちゃに夜更かししてしまう。そもそも休日だし、こんなときは十中八九自分に甘くなって寝過ごしてしまうのだが、なんと8時にばっと起き上がることができた。真面目なことや自分の固い主張や違和感の表明みたいなことを私はあまりツイッターで発信しないほうかと思うが、予想外に体が起きて、頭のほうはまっしろになって「素」になってしまい、(眠気覚ましにもなっていいや)と思ってなんか書いた。「長い時間をかけて変わるしかないことや反復してしまうことこそがその事象の核心になっていることもあるだろう。一見良識的で殊勝な発言から(自分が生きているうちに日本や世界がこうなって欲しい)という、実はとても自己中心的なんじゃないかという態度を感じることもある。」起き抜けに悪名高い「おすすめタブ」に流れてくる知らない人の発言を読んでふと感じたことだった。むかし読んだ哲学の本の内容も少し思い出していた。夜、自分のこの言葉を読み返して、「一見良識的で殊勝な発言から(自分が生きているうちに日本や世界や他人がこうなって欲しい)という、実はとても自己中心的なんじゃないかという態度を感じることもある。」と考えてみたら、自分としてはとても通りがよくなって、腑に落ちた。なにより、こうして言葉をひとつ書き足してみるとやはり自分の考えたことは他の誰かに物申す事柄にはなり得なくて自分にも多少返ってきたのだった、やはりそこで思い浮かんだのは前の妻のことだった。だけどそれによって自分を責めたり悲しくなったわけでもない。胸がぎゅっと絞められるような感じにそのときなったとしたらそれは、前の妻と過ごした経験がありきたりな物語のように心に残っているわけではなくて何を見て何を感じてもそこにその経験が、川のように流れていたりうたかたを浮かばせていることを肯定的に捉えられることもできるのだという励ましである。これからの暮らしで、前の生活が痣や傷のように残るのではなくヒントにできるという、そう考える自分を肯定できるという外から降ってきた励ましである。秋からの日記には夏に離婚した妻のことがちょろちょろ顔を出していたが、よいきっかけを得たので今後の自分の文章にはしばらく書かないことにしたいと、この夜、自然に思われた。さて、このツイートについて特定の文脈に受け取られて自分の人格や態度にレッテルを貼られたらどうしよう(まあいいや仕方ない)と朝は思っていたが、これならばその「文脈」が葉脈のようにひらいたな、と感じた。ぱっ。

 

凍ったものをどうするか

 春、山の上に引っ越してきて新しい同僚のかたがたと音楽の話をしているときによく羊文学の名前が挙がった。春はまったく羊文学を聴いていなくて、そのとき仲間内で人気が高かったのは「光るとき」という曲だったが、頭に曲名を登録するだけでまったく関心がなかった。よく名前は耳にするけどぜんぜん自分は通っていないなと思うグループのひとつだった。こういうことを自分で書くことは恥ずかしさと傲慢さがあるが「若い人たちの所有物」のようにも捉えていた。

 「光るとき」はさいきんよく聴くようになって、もちろんいい歌だと思う。このひとたちはコロナの制限下の時期に流行り始めたような印象があって、この歌もそのころ、みなリモートワークになったりいろんなイベントが中止になったり、そして学校では遠隔の授業が行われていたころ、そんな時期に発表された楽曲かなと感じた。次のような歌詞があって、そこに私が勝手に「励まし」を読み込んでしまったからだ。「永遠に見えるものに苦しんでばかりだね」「何回だって言うよ、世界は美しいよ / 君がそれをあきらめないからだよ」「永遠なんてないとしたら / この最悪な時代もきっとつづかないでしょう」 私はさすがに心も大人になってきてたとえば、文字だけで歌詞の味を感じることやジャッジすることができない。塩塚モエカの歌詞は前回の日記にも(別の歌に対して)使った表現のように鳥ガラスープに使ったあとの鳥ガラのようであると思う。目で読んで「うん、そうか」と思うだけでも、それが楽曲のなかで歌われることで強い説得力を持って聞こえてくるのだ。さいきんはそのような音楽の聴き方をしていると思う。「光るとき」はアニメの主題歌になったため、歌詞の内容はそのアニメの内容を多少ふまえているのかもしれない、私はそのアニメにはいまのところ関心を向ける余裕がないため検討はできない、しかし発表された日付は2022年の1月12日だった。私の予想とはちょっとズレていた時期だ。2020年、もし私が遠隔授業を余儀なくされて友達と会えなくなった18,19の学生であって、そのときにこの歌がふとどこかから流れてきたら、とてもうれしくて、ありがとう、ありがとう、と思っていただろう。「光るとき」を私はリアルタイムで聴いていない。このころの私はやせがまんでSpotifyに登録しておらず、ストレスを解消するかのように毎日近所のディスクユニオンに行って洋楽のCDを買っていた。

 さて、2021年の4月からの日本といえば制限がだんだんと解かれていって、それでも非常事態宣言の予感が近寄ったり、みなどんなふうに他人と接したり自分の行動を許したりすればいいか、もしくはその逆を手探りで考えていたころだった。年度で言えば22年の1月はそのような一年がまだ終わっていない、そのころ私は羊文学の歌を二曲、SpotifyのLike欄に入れていて、でも23年の4月や5月の私はそのことをすっかり忘れていた。「ラッキー」という歌と「夜を越えて」という歌だった、どちらもランダム再生でよく耳にするうちに気に入った歌で、前者のほうを当時はよく聞いていたけど衝撃を受けたのは後者だった。さいきんはこんなすごい歌を作る人たちがいるんだなとじつに中年くさい感慨を抱いた。それこそ、あまり聴きすぎると日常に思い悩む18,19の情緒状態になってしまうな、と思って「夜を越えて」は敬して遠ざけていたが今朝は、何の感傷も苦しみも哀しみもないごくふつうの夜を越えたあとだし、いつもと同じ朝だが、少しじっくり聴いた。「君の言うことが時々 / わからないような気がした / それでちょっと泣いたり / 変な歌うたったりしたな」という歌詞がほんとうにすごいな、と思って、しんみりした。

 退屈が苦痛で、お金がないのに、SpotifyNetflixに登録して、お金がないのに頻繁に映画を観に行ったりしていた、ひとりで、羊文学の「夜を越えて」に緑色のハートを付けたその時期は、2021年の4月から22年の3月までの時期は、いま思い出すととても辛い時期で、だけどその原因になった人間だってとても辛かったのかもしれない(辛かったはずだ)し、自分の辛さをどのように大切に、もしくは意固地に保持し、他人の辛さをどのように尊重し、理解すればいいかよくわからない、そんな一年だった。辛くても私は「ちょっと泣いたり」しなかった、私は泣かないということを数週間前に販売した赤い日記の本で繰り返し書いた、「変な歌うたったり」したかもしれない。君の言うことが時々わからないような気がした、それは言われたことでもある。

 そのころの生活において、スーパーの質の悪い油で作られた惣菜と安いアルコールは体をすさまじく蝕んだが(こんなふうに書くとなんだか壮絶ですが要するに健康診断の数値的なアレです)、辛くても心の底が抜けることはない、ありきたりな言い方をすれば仕事があったからだ。それは残念ながら作家業ではない。そして仕事に関する共同体があったからである。私が作家業以外のことをしていることは、私にとってまったく残念なことではない(それとはべつに作家としての私を励まし応援してくれる声がこの一年で届くようになりほんとうにうれしいことだ)。あのころはヘンリー・デイヴィッド・ソローの『ウォールデン』を読み合っていたが、それが終盤に近付くころ、次は何を輪読するかという話になってフォークナーの『八月の光』が挙がった、いままでも何度か『八月の光』の読書記録をブログや、ブログを本にしたものに収めてきたが今回もその話をしたい。

 

 この前読んだ範囲はぜんたいのちょうど真ん中、もしくは真ん中にさしかかるころであって、ジョー・クリスマスの個人史のパートから束の間抜けて、彼とともに暮らしていた、暮らし始めていた、ジョアナ・バーデンという女性が読中の存在感を占める。以前からとても仲良くしてもらっている、この前の文フリでもたくさんお話をした作家の方がしばらく前に「自分はジョアナ・バーデンかもしれない」という小説的な瞬間(これはもちろん皮肉やましてや誇張表現ではない、敬意だ)を投稿しており、そのことをちょっとだけ思い出して、さまざまな、判断以前の意識をほんの少しだけ頭のなかにまとわせつつ、ただ、その章はジョアナ自体のエピソードというよりはバーデン家の家族史がジョアナからクリスマスに滔々と語られる、そういう場面だったのである。

 ジョアナは20世紀の初頭から先祖のことを語るわけだから、語られるのは19世紀あたりの、南北戦争前後の時代である。そのような時代にあってジョアナの祖父は奴隷制廃止の態度をとる。奴隷も奴隷制も文字通りの意味では接することのない私たちにとってはバーデン家は「正義」の一家に映るかもしれないが、考えてみてほしい、価値観が何もかも違う時空間に対して、私たちの尺度はその人物を「正しい」と判断できるかもしれないが、物語空間においては、その物語のなかの農村社会では奴隷制廃止論者はきわめてアウトサイダーなのである。ジョアナの祖父とジョアナの兄は殺される。私たちは21世紀のアメリカで黒人が白人警官に殺される事実に沈痛な思いを抱くが、19世紀の南部社会では黒人を奴隷の立場から解放しようと欲望する白人のふるまいもまた白人の暴力の対象となる。もちろんそれは暴力を行使した者がその対象に異なる暴力や崩落の予感を感じ取っているからである。さて、祖父と兄の墓地は町民の目から隠された。ジョアナの父は家族の敵討ちをしなかった。それが昔話を聞いていたジョー・クリスマスの疑問点だったが、ここにも容易なコメントはあまり挟めないだろう。棚の上にあげておく。幼いジョアナは父に連れられてふたりの墓を訪ねる。そのときに父は娘に「呪い」や「宿命」のことを語るのだった。

 

忘れてはいけないよ。おまえのおじいさんと兄さんがそこに横たわっているんだよ。ただ一人の白人に殺されたのではなく、おまえのおじいさんや、兄さんや、お父さんや、おまえのことがまだ問題にもならない以前に、神さまがある人種全体にかけられた呪いによって殺されたのだ。その人種は未来永劫に呪われて、白人種がおかした罪を宣告し呪わねばならない宿命を負っている。おぼえておくんだよ。白人の追っている宿命と、白人にかけられた呪いを。それは永久にお父さんのものでもある。おまえのお母さんのものである。おまえはまだ幼いが、おまえのものでもある。すでに生まれ、またこれから生まれる白人の子供のひとりひとりが負っている呪いだ。だれもそれをのがれることはできないのだよ。 (『フォークナー全集9』 190ページ)

 

アメリカの歴史や、文化や、あるいは文学が好きだったり、そうでなくても、さまざまなものを読み知っている人なら、世界の問題のことがよくわかっているだろうし、だから、こういう記述を読んでも、「まあそんなふうに言うこともできるだろうな」というところで済んでしまうだろうが、私は「呪い」とは何かを少し考えたりした。そしていまの世界で起こっていることを少し連想したりもした。ひとつだけ。私はいまの世界で起こっていることを「呪い」という言葉で片づけたり還元したりそれで巧く語りたいのではなくて、人間が「呪い」という表現で何かを説明しようとするときにどのような説明できないことがその言葉に込められているのかここで考えたいのである。それはそのときの私がしたいことだった。出来事が起きてその影響がのちまでつづくこと、こびりついて離れなくなってしまうことは時系列的なものの言い方である、時系列的であるということは観察の対象になるということだ。しかし人は「記憶」とともに生きているから、記憶はまったく時系列的ではないから、出来事が起きて、その影響がいまこうして悲惨にもさく裂しているという「観察」では納得できないのである。解決できないこと、解決しないことは、一見にして「観察」の「対象」であると同時に私たちのなかで、あるいは、間で(つまり絶対的に外ではない)、「凍ったもの」になる。そして「凍ったもの」は過去、現在、未来をぜんぶうやむやにしてしまって、すべてを規定してしまうのである。起こったことの後世の影響ではない、プログラミング済みの規定だ。解決できないことは未来を規定する。だからすべてをあきらめる、みたいなことを言いたいわけではない。「凍ったもの」をどうするか、ということを考えたい、考えなくてはいけないな、とこの日記を書くまでの日々でぼんやり考えていた。動くのではなく、考える?と二元論的に反省してしまうが、私は、動くための手掛かりは、「信じる」ことではないかと、信じている。たとえば、いくつかの「観察」を学ぶことで築かれる自分の判断を信じること。

 この前、同僚と帰りのバスで、世界のあらゆる言表は比喩なのだという話をして面白かった。凍ったものは自然界ではいずれ溶ける「さだめ」だが、私が口にする「凍ったもの」はおそらく溶けることを前提としていない、前提としていないというか、「それがやがて溶けることを信じる」というような形で使ってはいないのだろう。私が信じたいことはきっともう少し具体的なことだ。比喩としての「凍ったもの」は少なくとも私には日常の「観察」を外れた部分で生じる認識を要求している。

 さいきんのツイートでもっとも目に残ったのは、アイコンの写真が実人物を指しているのであれば40代ほどと思われる男性の次のツイートだった、ここでわざわざ私が性別や年齢に言及していることは「世界でいろんなたいへんなことがあって、あわあわしながらタイムラインを見ていたら、どこかのだれかのふとしたことばに救われました、、、」というようなことをまったく書きたくないからである。そのようなフィクション化に自信があるからこそ、そう思う。私はあなたを知っており、あなたは私を知っている。その人はこう書いていた。

「ニュースに取り上げられないだけで戦争は絶え間なくあった / これからもそうだろう / 私はその一つに一つに反応していけるほど心が強くない / やさしくもない / 申し訳ない / 申し訳ない / 申し訳ない / 戦争や争いごとが嫌いです」 

 強い共感(中くらいの共感ならばある)や、救済された気持ち(ちょっと楽になった程度の気持ちならある)というわけではなく、どうしてこの言葉が目に残ったのかな、と思っていたら、半日後に、それは、その言葉に表れているその態度が私がどうしても大切にできなくて別れた、以前は間違いなく大切だったひとにとてもよく似ているからなんだと気づいた。「私はその一つに一つに反応していけるほど心が強くない / やさしくもない / 申し訳ない」 私は暮らしのなかで他人に反応することがとても大切だと思っているのにまったく反応できなかった時期や人間が存在した、心が強くない、やさしくもない、申し訳ないと言ってばかり(だったかは忘れた)、の、そのひとに反応することができなかった。 そのひとは世界で起こっていることのすべてにやさしくなかった。「そのひとは世界で起こっていることのすべてにやさしくなかったが私に対してはやさしかった」というような物語っぽいこともなくて、人生うまくいかないなあと思っていた。だって自分がやさしくないのだから、自分がもっとやさしくなれたら、と書いたらそれは自己憐憫や自己愛に陥ってしまう、単純にここでは、人生うまくいかないなあ、で終わっておこう。

 けっきょく私は情勢に関するつぶやきから自分の私生活のことを連想してしまって、連想するにとどまらずにそれを日記に書いて表現することはおそらく、ふだんの自分の基準で言えば非常に責められることではあるが、一線は超えていないというか、自分が許せないと思うような書き方はしていなくて(それを述べることが今回の日記の予定だったがいろいろしゃべってるうちにすっかり逸れてしまった)、とりあえずキーボードを叩くのが疲れちゃったので、なにか読み返して自分で気に食わないところがあったらいくらでも書き直そうかなと思っている(それは許せるのかよ~、っていう)。書こうと思ったけどもう疲れたのでやめた、みたいな話題は、そうですね、たとえば、ブルーハーツの「青空」とか、いまの自分はあんまりいい歌だと思えないなあ、みたいな話だ。

 世界で起こっていることにも個人の心にも「凍ったもの」は、きっとある。「それがやがて溶けることを信じる」わけではないが、繰り返し言うようにその心の態度はニヒリズムや厭世に陥りたいわけではないし、凍ったものをどうするか考えて動いた成果はまた違う誰かと接するときにきっと役立つだろう。11月もおしまい。先に挙げた曲に並んでさいきんよく聴いている羊文学の曲は「マヨイガ PHIL REWORK」です。

 

 

 

まえがきはあとがき

 ここさいきんの日記(の多くはすでに現在非公開にしてしまったが)で何度か「金木犀の夜」という歌の話を書いていた。過去の日付のなかで、どんなふうに好きかそのうち書きたいと言っていて、町の金木犀もおそらくほとんど散ってしまったし、それを書いて、おそらく私の文章のなかに「金木犀の夜」が出てくるのはこれで最後だ。そうとは言ってもそんなに説明することはない。この歌が発表されたのは2018年で、他人と通話するときはとっくにみな、ラインを使っていたはずだ。「電話番号を思い出そうとしてみる」ことはほとんど私たちの生活から消えていたわけで、そもそもラインがないころだって電話番号やメールアドレスは「アドレス帳」に登録されていたのだから少し不思議に響く。でもこの気持ちは好感だ。この歌は、いちど別れて離れてしまった相手のことが、歌われる言葉の関心の中心にあるわけだが、一度データのなかから消してしまったそのひとの番号を思い出そうとしているのかな、なんて、頭のなかで「裏」のようなものを想像、させない、する必要がないところがいいところかな、と思う。「金木犀の夜」の歌詞は、個人的にはスープを取ったあとの鳥ガラのようなものであり、「物語」を感じたり「解釈」を投入する必要がなくて、今風に言えば全行がエモい、エモいということはこちらが何もしなくてもいいということではないかと思う。そういうふうに捉えれば、エモい創作物というのは、現代の全自動的なサーヴィスのひとつのようである。一番のサビの最後にある「忘れないで」という言葉が二番の最後には「忘れないよ」に変わることは、言ってみれば、チェア型マッサージ機の揉み玉の作動が肩から腰に移るのと同じなのかもしれない。いやいや......。好きな歌なのにあまり上手く言うことができない。要するに、マッサージ機に座っている人がマッサージ機に座っている自分を恥じている事態はほとんどないだろうということだ。

 「金木犀の夜」をよく聞いていたのは夏の時期だったが、秋になってほんとうに金木犀の季節になってからふと、そういえばフジファブリックに「赤黄色の金木犀」という歌があったな、と思って大きな音で聴いてみたらちょっと泣けた(誇張)。フジファブリックは中学生のころに例の春・夏・秋のシングルが出て、最初のメジャーアルバムが出て、そのあと冬の「銀河」が出て、そしてそれ以降はあまり追っていなかった。高校生になって、気が付いたら「若者のすべて」なんか出していて、そして私が浪人していた年に志村が亡くなった。この年にマイケルジャクソンも忌野清志郎も亡くなったことを覚えている。大学生になってからの記憶としては、親友と観に行った映画版『モテキ』の主題歌である「夜明けのBEAT」が懐かしく思い出される。とはいえ、映画を観に行くまでは自分のなかでフジファブリックは格下げされていた。フジファブリックはなにも悪くないのだが。大学に入ったころは、いわゆるメジャーな邦楽ロックからけっこう離れていた時期だし、(なんかこの人らちょっとダサいな、、)という部活の、部室に置いてあったノートに、志村の死を悼む文章が「感傷的」につらつら書いてあって、(ああなんかすべてダサいな、、)となってしまったのだ。あとそれから。なにより、離婚した妻にとっての神様が志村だった。亡くなってから好きになったらしいからほんとに神様みたいなもんだ。聖地巡礼ということで高円寺まで歩きで連れていかれたことがあった。そんなわけでフジファブリックは、有名な曲しか知らないが、若者時代にだいたいそばにあったのである。「赤黄色の金木犀」の、「期待外れな程 感傷的にはなりきれず」という行がおそらく、志村正彦の最大の自意識の表出だったのだろう。いっぽうで「だいたい夜はちょっと / 感傷的になって金木犀の香りを辿る」ことを切々と歌い始めること(そしてそこに固い説得力がある)が、じつに、私たち(以降)の世代の在り方だな、とつまらないことを考える。どちらが上、などとは考えないようにしたいが。ちなみに私は先に歌詞を引いたところでキーボードを叩きながら思ったのだが、「ちょっと」という句は「感傷的」から分離しておきたい。だいたい夜はちょっと......、よくわからないけど、まあ、もう、感傷的って言っちゃっても、いいかな、っていうのが私の感じる私の世代感(観)だ。だから私はそういうものに対して好悪はんぶんなのである。フジファブリックでもっとも好きな歌は「虹」だろうか。「言わなくてもいいことを言いたい」危うい主語の拡げ方だが、みんな志村の自意識が大好きだった。個人的には「若者のすべて」にはあまりそういう要素がないように思う。

 「みんな~が大好きだった」という言い方は『ドラゴンボールGT』の最終回みたいでちょっと笑ってしまう。言わなくてもいいことを言いたい。

 だんだん寒くなって......、ということで、居酒屋でひとりでお酒を飲んだあと、寒風が身に染みる時期になってしまった。テンション高めで退店しても、外を歩けば、はやく家に着きたい......、という気持ちで頭がいっぱいになってしまう。夏場はそんなことはないから、帰り道に踊ったり、ガードレールの上を歩いたり、階段を三段とばしで駆け上ったり、クマとすもうをとって友達になったり、道行く猫の後ろを追って小道具屋に辿り着き、じいさんたちの演奏で歌をうたったり、家の前でひっくり返っているセミを助けてあげたらゴキブリで笑ったりした。それから、飲んだ帰り道に小さなとかげを見つけたことがあった。七月のはじめころだったと思う。酔った頭で、捕まえてやる!と思い立ち、目をこらしながらとかげの行く先を追い、スーツ姿で何度もアスファルトにしゃがみこんだ。とかげはなかなかすばしこくて、私は15分くらい道路の真ん中をうろうろしていたと思う。両てのひらのなかにやっと小さな生き物をおさめることができて、私はちょくちょく手のなかのそれを眺めながら、残り数分間の帰路をたどった。

 家に帰ってから、実家から送られてきた海苔の空き缶にとかげをいれた。とりあえず水をあげて、冷凍庫で凍らせていたゼリーをいれてみた(私は夏場、凍らせた子ども用の小さなゼリーをよく食べる)。よく考えればわかることだが、とかげみたいな生き物は自分で小さな虫などを捕食する、肉食の生き物なのだ。私の家にとかげの餌になるようなものはなかった。ネットで調べてみると爬虫類専用のフードなどがあることがわかったが、私はそこまでしてとかげと共にいる気はなかった。べつにペットにしたいとか思っていたわけではなくて、単にとかげがかわいかったので、しばらく自分の支配圏において、明るい場所でぼんやり眺めたかっただけだ。エゴである。家に着いてひと段落つき、酔いが覚め始めたころに私はとかげを逃した。そのあと、ツイッターのスペースでいつも話しているような面子でおしゃべりし、その面子がログアウトしたあとも、まだ眠くないな、もうちょっと他人と話したいな、と思って深夜にスペースを開いた。ぐうぜん誰かが入ってきて、その人のことをよく知らなかったが、知らなかったゆえに私はとかげのことを話した。「勝手に道端でうろうろしていたとかげをしつこく追いかけ捕まえて、家に連れ帰ること自体がエゴだけど、私は「とかげ捕まえた!」などとツイッターに画像を投稿したりすることはしなかったのです、そうしたら自分が嫌いになると思ったから」、などと、滔々と独演会をした。自分で書き起こしてみると噴飯物だなこれは。しかも、じゃあ、そのエピソードじたいをいまこうやって書いている自分はどうなのか......、という問題も残るが、そのひととは、とかげとも、ほんとうにぐうぜんにそうやってすれ違っただけで、こんなふうに夏が去ったあとに思い出話をすることは何かとても短い本のあとがきを作っているような気になる。本文よりあとがきのほうが長い本もあるのだろう。

 本格的に夏が到来して、連日ありえないほど暑苦しく、そんな日の真ん中に私は下駄箱の下に海苔の缶を置きっぱなしにしていたことに気が付いた。缶のなかに入れた桃色のゼリーはカビが生えて真っ黒になっていた。

 

 あとがきという言葉で連想されるのはアメリカ文学研究者の八木敏雄先生だ。私が学部生のころに亡くなったので学会などでお会いしたことはない。先日、ちょっとした用事でひとの部屋に入ることがあり、机にナサニエルホーソンの『緋文字』が置いてあった。「あ、『緋文字』だ」と思ったけどそれを持ち主に向かって口にすることはなく、ただ、その文庫版は旧い新潮文庫版だったので私は、(岩波文庫のやつのほうがいいのにな)と思った。古典を翻訳することはきわめて重大な偉業だが、それが古典であるゆえに、翻訳はだいたいにおいて新しめのものがよい。19世紀のアメリカ文学の有名人は、まずエマソンとソロー、この人たちは小説家ではなく著述家、思想家。それからホイットマンとディキンソン、この人たちは詩人。そしてポーはあれこれと書いているが小説家としては短編が専門、そして純然たる小説家としてメルヴィルホーソン(と言いたいところだが晩年のメルヴィルは詩を書いていた)。八木先生は19世紀アメリカ文学の三大小説家の代表作の翻訳をすべて岩波文庫で出版している。学生時代、19世紀のアメリカ文学を読み始めるか、と思って50円で買った昔の翻訳の『白鯨』を読んだが、なにがなんだかさっぱりわからなかった。ただでさえなにがなんだかわからないことが売りの小説なのに文章自体がよくわからない(まあメルヴィルの原文だってだいたいそうか、彼はホーソンやポーと比べると英語に「凝り」というか「力み」みたいなものが遍在していてとても親しみを覚えるのだ)。だがそのあと、ちゃんと新刊書店さんで八木敏雄訳の現行『白鯨』を買い、その「ちゃんと読める!」という実感に感動した。『緋文字』もしかり、というわけである。

 八木先生は翻訳以外にも大量の研究実績があり、そのアプローチや内容は、なんだかとても好きである。着眼点やそれを述べていく文章になんというか「芸」があって、同時代の英米文学者のなかでもなんだか畏敬というより親しみを覚えるのだ。文学研究というものがきわめて先鋭的な学問になる前の「素朴で奥深いもの」に興味をいだいていたというか......。古い文学者のように「文学とは何か」「小説の魂、真髄とは何か」みたいな展開にほとんど(けっして)ならないのもいい。まあちょっとこのへんは単にブログの画面だけ開いていてもうまく書けないから止めよう。一度もお会いしたことがないのに「八木先生らしいなあ」と思う書きぶりや文章はいくつかあって、そのひとつは「これはまえがきであるがいちばん最後に書いたのでこれはあとがきでもある」みたいな一節だ。そういうことにとてもこだわっていた人なのである。ただこれは、「書くこと」の時間性にかかわる重大な話題のひとつであって、同様の観点を八木先生ときわめて親しくしていたらしい私の師匠や、その師匠の畏友、もしくは師でもあるショシャナ・フェルマンまでが同じように本の「前書き」や「後書き」で言及していたように記憶する。一般的な話をすれば、論文のようなものを書くときはイントロダクションは最後に書くものだと教わる。とはいえ、八木先生のこだわりはそのような一般論ともまた異なる様子があったはずだろう。

 ・・・とここまで書いてきたところで八木先生の本を手に取ってみたら、彼は「あとがきはふしぎなもんだ」と言っているだけだった。私の記憶が以上に挙げたような他の書き手とまざってしまったのかなあ。『アメリカン・ゴシックの水脈』という本の「あとがき」の最初の段落をちょっと抜き書きしてみよう。

「あとがき」とは奇妙な書き物のジャンルだ。「本書の意図するところは......」というように未来形では書けず、「本書の意図したところは......」というように過去形でしか書けない。しかも「意図」したことが過不足なく実現されるようなことは、人事にあっては稀有なことであるので、あまり颯爽とした物言いもできない。とはいえ、「もとより、浅学非才の筆者ゆえ、謬見・誤記のたぐいも多々あろうかと思われるが......」というような過度のへりくだりも禁物。もしそのとおりなら、出版などしなければよいのだから。しかし、むろん「あとがき」という書き物のジャンルにも、以上のような不便をおぎなってあまりある便利もある。当の書物が出版される運びになった由来や事情を、個人的な感慨もふくめて、「さきがき」でならできない一種の気安さをもって書くことができるばかりか、適度な弁明もできるし、そのつもりなら、あと知恵を付加することもできる。

どうです。面白いでしょう。それにもまして、なんだか人柄が伝わるね。会ったことのない私自身がそのように思ってしまうのだ。「あとがき」をひとつのジャンルとしてワンパラグラフ記述してしまうところに根っからの研究者らしさと芸がある。半世紀以上前の文学研究は、「(~~という)ジャンルとは何か」にとても拘っていたように思う。

 八木先生の言い方を借りるなら「あとに書いたもの」が「さきがき」(ほんとにかわいいことばづかい)に置かれることもあるわけで、フェルマンのとある本の冒頭には「あとから書いた序章」というサブタイトルが付いている、奇異な工夫ではなく、むしろそれが「書く」ということである。むしろ、私たちの生そのものがじつは、「あとから生じたものが先にくる」という事態をさまざまかたちで被り、または、自ら作り出していて、それを私たちに意識化させるひとつの営為が、読み書きなのかもしれない。そのことを、フェルマンは知悉していたはずだ。フェルマンが文学研究者でありつつ、であるゆえに、精神分析理論やtraumaの研究者でもあることは、言うまでもない。

 十月もおしまい。この前、とかげとはまた異なる小さな生き物のために一仕事をした。その生き物にとってそれは、先に書いたあとがきなのか、後から書いたまえがきなのか。君は人間ではないから、言葉が使えない。言葉に縛られ、操られる時間もない。でも人間のそれとは異なるかたちでも、時間そのものはかならずある。小さな生き物のなかに流れた時間を、エゴだとしても、私が私自身の声で何かを書いてきっとどこかに置く。この生き物のことを日記に書くのは、初めてだ。

 

まるで泣いてるのと同じ

 音楽を聴きながら日記を書こうと思ってSpotifyを開いたら「あの夏」という噴飯物のタイトルを冠したプレイリストが出てきて、しかもそこには一曲も登録されていないという点が面白いところだ。そういう日常の出来事が架空の話の種になったりする。誰かが「あの夏」というラベルの貼られたカセットテープを聴きたいと思っている、そのラベルを貼った人間はその人にとってあの夏をいっしょに過ごした大切な人だったからだ。「あの夏」は遠い過去に過ぎ去って、大切な人は、じゃあ、もう簡単には会えない存在になったとしよう。ドラマチックなきっかけとよみがえる記憶のなか、いくつかの困難があって主人公はテープを手に入れるが、そこには何も吹き込まれていない。どうしてだろう? わからん。この話は売れない。答えを用意していないからだ。いつもそこで止めてしまって、文章を売ることに対する責任を育てられずにここまできた。ちょっとだけ「ドライブマイカー」を思い出した。

 カセットテープというアナログなメディアの面白い点は、何も吹き込まれていなくてもその何も吹き込まれていない状態が再生され続けることだ。電話をしているときに会話が途切れて、相手がいるその空間の空気が、ただ音のない音になって伝わってくるように。小説の多くが、残された人間の語る話だ。長電話をしていて、ちょっとしたことで(トイレであるとか)相手が受話器から離れる。じゃあ自分もトイレに行こうかな、と思わなければあなたのほうは、ときに受話器をただ耳にあてているのかもしれない。数分間、残されたときに、ふと考えていることがきっと自分の文章だ。文章はきっと中断を中断とは思わないこと。持続。それは相手を想う数分間をまるで、永遠のように感じると語られるような、凡庸な修辞とはねじれの位置にある。凡庸だからといってそれを尊重しないとは言わない。でも「永遠」はない。永遠はなく、硬く強い持続がある。何も吹き込まれていないカセットテープが再生されているときの、その音、中断された会話のなかにある、その音、それを聞こうと思う気持ちが文章を読むことであり、書くことなのだろう。「行間」みたいなことを語っているつもりもない。わかるひとにだけわかればいいと思っているつもりもない。常にみんなわかれと思っている。

 

 さいきん土曜や日曜の宵の口に、夜の散歩をかねて近所の温泉に出かけることが好きで、日記にもそれらに行った記録が何度か残っているけどうちの近所には温泉(銭湯)がふたつある。うちの南と東に。八月の終わりに書いた日記に書き忘れたことがひとつあってそれは、うちの東にある温泉に昼間行ったときのことだった。東の温泉は食事処や家族風呂やマッサージ室などが設けられていて充実した施設だ。露天風呂に大画面のテレビが取り付けてあったりする。数ヶ月前に、お風呂に入ったあと食事処でビールやたこ焼きを飲食したのが楽しくて、その日もそうしたいと思って入浴券を買った。浴場までの道に食事処・休憩スペースがあってずいぶんごったがえしていた。ただ混んでいるというわけではなく、そこのスペースでイベントをやっていたみたいだ。「やっちまったな!」で有名な芸人さんが訪れていて、とても広いとは言えないその空間はたくさんの笑いに包まれていた。スタッフの着ているシャツや立てられているのぼりの色合いやデザインに既視感があって、すぐに、ああこれは24時間テレビのチャリティイベントなんだなと気づいた。テレビが放映されるだけではなくてあれは、日本全国でトークショーであったり募金などをしますでしょう。私の地元でも毎年、県でゆいいつの遊園地で近所の中高生たちが募金のブースを開いている様子が中継されていたように思う。そっかぁたしかに24時間テレビっていまくらいの時期かあ、と思って脱衣所に入った。芸人さんのイベントは終わりかけていたので、湯船につかっているあいだに食事処が空くといいなあと思った。露天風呂の大きなテレビにはもちろん24時間テレビが映っていた。

 風呂から出るとイベントは終わっていたが、おそらくそのまま残った人が多いのだろう。席がうまいこと空いていなくてけっきょく私はそこで食事できなかった。帰り道にふと思い出したことがあった。大学3年生の同じ時期、ふがふがと起き出したらその人が、ソファーに小さく座ってテレビをつけて観ていた。24時間テレビだった。午前中の時間帯で、芸能人のマラソンやドラマではないコーナーが映されていたと思う。着替えたり顔を洗ったりもぞもぞと動き出しながら私はその人に、「そんなの観て、面白いの?」と斜に構えた感じで訊いた。24時間テレビに対しては、思春期以来、偽善と虚偽にあふれた悪のコンテンツだと思っていてそのままだった。その人は「面白いよ」と言った。その人があまりにも真剣にテレビを観ているので私もいっしょに観た、でもその内容を少しも覚えていないからきっと、そのあまりにも真剣な横顔のほうを多く見ていたのだろう。24時間テレビをあんなに真面目に観る人を初めて見た、こういう人のことを好きになるのは初めてだな、と思った。だから特別だった。昼どきになる前に、私はその人を自分の家から駅まで送っていって、それからなにもない。数年前からその人のラインのアイコンは赤ちゃんの画像になっている。

 偽善と虚偽に固められているとしても、何か直感的に「嫌だ」とか「臭い」と感じるようなものが漂っているとしても、画面の向こうの誰かははっきりと存在していて、何かに苦労したり何かを達成したりしようとしている。そんな当たり前のことをまるで新鮮なことのように気付かされましたってそれは、とんでもなく失礼で馬鹿なことだけどそれを、その人から直接言われたわけじゃなくてよかったんだろうなと思う。ひねくれた自分がいて、何かきっかけがあってそれで、素直な自分に変わったみたいな、「何かに気づいた」みたいな、生活はきっとそんなふうに物語みたいになりすぎてはいけないんだと思う。だから私がその人のことをいまでも覚えているのは、たとえば感謝をいだくとすればそれは、ただテレビを真面目な顔で見ていたその画が私のなかで音のない部屋のように残っていることで、いまこんな文章になっている。これはきっと随筆でもない。けっきょく私はなんらかの変化や教訓を書きたいわけではないんだなと気づいたそのときに私は自分が文章を書く理由めいたものを手に入れる。しかし「理由」は物語だ。だからほんとうは理由もいらない。

 物語といえば、私は夏の始まりに「「涙が勝手に流れてきた」みたいな表現が嫌だ」みたいなことを書いた。そんなふうに自分の生活を書き表すことがもっとも自分を物語化しているみたいで抵抗があるという内容だったと思う。前の段落をひきついで言えば、「理由があって何かをする」ことを語ることが物語の類型だとすれば「理由がないのに泣けてくる」ことを語ることもまた類型だということだ。誰にも賛成も反対もされなかった。意味不明だったからだろう。ただ、ふと自分が好きな文章を振り返ってみれば、新見南吉の「花のき村と盗人たち」におけるもっとも重要な場面では「涙が勝手に流れてくる」ことが語られており、そういえば、とおどろいた。盗人のかしらは社会のなかでつまはじきされている自分が子どもに子牛を勝手に預けられたことをおかしく思い、「あんまり笑ったんで涙が出て」きたのだった。

「くッくッくッ。」
とかしらは、いがからこみあげてくるのが、とまりませんでした。
「これで弟子たちに自慢ができるて。きさまたちが馬鹿づらさげて、をあるいているあいだに、わしはもうをいっぴきんだ、といって。」
 そしてまた、くッくッくッといました。あんまりったので、こんどはました。
「ああ、おかしい。あんまりったんでやがった。」
 ところが、そのが、れてれてとまらないのでありました。
「いや、はや、これはどうしたことだい、わしがすなんて、これじゃ、まるでいてるのとじじゃないか。」

引用しながら再読してみて私が好きだな、と思うところは「涙を流す」ことと「泣いている」ことを書き手が区別しているその繊細さである。そしてそのことが語り部ではなくかしらの声で伝えられることだ。もしかすると、かしらは「自分は泣いていいのかもしれない」と思いながら、その思いの中で泣いたのだった。その思いが、「これじゃ、まるで泣いてるのと同じじゃないか」という自己説明的なつぶやきに言語化されているように感じるのである。「まるで」という修辞は重い。だから、この一節はぜったいに語り部ではなくかしらの声のなかに置かれていなければならない。

そうです。ほんとうに、盗人のかしらはいていたのであります。――かしらはしかったのです。じぶんはまで、からたいでばかりられてました。じぶんがると、人々はそらなやつがたといわんばかりに、をしめたり、すだれをおろしたりしました。じぶんがをかけると、いながらしあっていたたちも、きゅうに仕事のことをしたようにこうをむいてしまうのでありました。にうかんでいるでさえも、じぶんがつと、がばッとをひるがえしてしずんでいくのでありました。あるとき猿廻しの背中われているに、をくれてやったら、一口もたべずにべたにすててしまいました。みんながじぶんをっていたのです。みんながじぶんを信用してはくれなかったのです。ところが、この草鞋をはいた子供は、盗人であるじぶんにをあずけてくれました。じぶんをいい人間であるとってくれたのでした。またこの仔牛も、じぶんをちっともいやがらず、おとなしくしております。じぶんが母牛ででもあるかのように、そばにすりよっています。子供仔牛も、じぶんを信用しているのです。こんなことは、盗人のじぶんには、はじめてのことであります。信用されるというのは、といううれしいことでありましょう。……

教育的には、つづくこの記述にはかしらが泣いた「理由」が書かれているように捉えなければいけないわけだが、かならずしもそのように文章の或る箇所の役割を固定しなければいけないわけではもちろんない。私は、「これじゃ、まるで泣いてるのと同じじゃないか」という「自己説明」の展開図のように思える、それが語り部の声で語られることで物語の支柱になる「理由」として読まれうるというだけだ。物語はこうした小さな仕掛けのうえに成り立っている。ちなみに、かしらが鯉や猿からも嫌われていたという(悲しい)ユーモアは私が大好きな箇所であって、「悲しみ」はそう書かれたほうがいいのではないかと思うし、私はツイッターでもブログでも、他人の文章にそのようなものを見つけるとすごくいいなと感じる。鯉や猿からも嫌われているというのは、ある意味ではおかしいことだし、ある意味ではとても絶望的なことなのだから、このくだりにはきわめて重大なことが書かれているのだ。

 

 牽強付会と言われても仕方ないが、おそらく私はけっきょく、この一連の場面を単に「涙が勝手に流れてきた」場面とはみなすことができない。裏返せば、私のなかには世の中の文章に対する「単に「涙が勝手に流れてきた」ことなんてあるんですか」という子どもじみた苛立ちがあるのかもしれない、それが創作ではなく日常的な現実を取り込んだ文章であればなおさらなのかもしれない。ちなみに、そのときの日記にも書き忘れたことだが、私は「思考と感情」のような二項対立における前者を優先しなければいけないと思っているわけではけっしてない。そのふたつは常に重なり合っているわけで、むしろ二項対立を無意識に採用しているような表現のありかたに引っかかっている。

 

 半年以上前、随筆をめぐる座談会で「LINEでポエムを送ってもいいじゃないか」という発言があり、多くの人に支持されたように思う。私もいい意見だな、と思ったが少し変型させてみると、私たち(あえて主語を大きくしよう)の日常的なコミュニケーション、または、文章表現に物足りないのは、どんくさい自己説明的なつぶやきなのかもしれない。「これじゃ、まるで泣いてるのと同じじゃないか」これである。自己言及性はきわめて散文に特権的な性質である。私たちはそれを日常のなかであまり楽しんでいない。私は私に、ツイッターやLINEでポエムを送らせてほしいと思うし、なにより、「散文」をやらせてほしい。私は、好きな人の「散文」を受け取りたい。自分を物語化してバズらせることよりも、「私は泣いていいんだ」という言葉に込められた複雑さに信を置きたい。

 

 秋が始まっていく。時節的なことを少し書いておくと、私は「しょうじょう寺のたぬき」という童謡が、なぜかとても好きだ。わけあってちょっとした愛着があると言ってもいいだろう。「つん、つん、月夜だ、みんな出てこいこいこい」というやつである。それにつづく「おいらのともだち ぽんぽこぽんの ぽんぽん」という詩がとても好きで、「ぽんぽこぽん」が「おいら」のおなかの音なのか「ともだち」のおなかの音なのかわからないことが好きだ。そこにはお月様のしたであなたと出会ったうれしさとよろこびがある。これはたぬきの自己説明ではないか? 理由もなく涙が流れることもなければ、理由もなくおなかを鳴らすこともない。九月ももう終わり。あの夏に聴いた歌がないわけではないけれど、新しい歌を聴きながらその隙間に、だれかの、沈黙にも等しいような腹鼓に耳をすませるような夜長があったっていい。

 

天文学的七月

 とある人が「人間って学生時代にできなかったことに執着するらしいよ」と言っていた、それをまた別の人に伝えるとき私は「人間って二十代のころできなかったことに執着するらしいよ」と自分で内容を拡大して言っていてなんだかおもしろかった、できなかったことやしなかったことはきっと誰にでもたくさんある、あの言葉はきっと大人になってしまったひとが傍目から見て何か年甲斐もなく醜いことをしてしまったときにだけ使う言葉、「らしいよ」という言葉に当事者性がない、離婚した係長がお金たくさん使ってアプリで若い人と遊びまくってるらしいよ、あの人は学生のときから勉強ばかりだったらしいからね、デートすることもセックスすることも学生時代に知り合ったその人としか知らなかったんでしょ、そうらしいね、まああれはあれで幸せそうだよね、日本語は伝聞の形式で自分をステージから外すような感触がある、英語も面白い、たとえば三人称の小説に "He seemed happy." と書いてあっても原理的に誰がどんな立場からそんなふうに見ているのか決定するのは不可能、私たちは不透明な伝聞・風評・印象・感想に常に巻き込まれる余地を持っている。私たちは彼が幸せであるかどうかさえ断定することはできない、でもそれは日常であっても同じことでしょう?"He is happy."は教科書の中にしか存在しない。

 どうして「学生時代」を「二十代」に拡げてしまったのかは振り返ってみれば小さな理由はあるのかもしれない、じっさい私は新卒で就職しなかったから二十代の大半はずっと学生のまま過ごしていた、というのはちょっと後付けっぽいほうの理由であの言葉をまた別の人に伝えるときに私は長嶋有の「三十才」という『タンノイのエジンバラ』に収録された短編を思い出していた、二十代が終わると当たり前だけど三十才が訪れてまだ三十代という時間の帯を意識せず年齢の十の位がひとつ増えてしまったと十年ぶりに思う、やらなければいけないことやもうできないことがさざ波のように寄せたり引いたりするのかもしれない、ピアノの下で眠る主人公の女性は物語の最後できっと泣く、泣くことはもうできないことだったかもしれない、だけどやらなければいけないことだった、そういう話を思い出していた。執着はしていないと思うけど二十代のころにほとんどしなかったことは泣くことだった、驚いたことに自分の書く小説でも大人はほとんど誰も泣かない。現実ではどちらかというと他人が泣くところを見ている側だったように思う。男が泣くということは、みっともないとか逆に美しいとかは思わない、だがしかしなんとも言い難い迫力があるように思う、そして突然だ。男は突如として泣く。ちなみに本や映画を鑑賞して泣くこととはちょっと違う、本や映画を鑑賞して泣くことはたまにある、今そこに漂っているしんどい何かに対して辛いと思う、泣けるかな、と思って顔をうめぼしみたいにしてみるけど涙が出ることはない、泣く前に泣く自分を作っても日常はそれを許さない。とはいえ「ふとしたときに気が付くと涙がぽろぽろ流れていた」みたいなこともあまり信じていない、実はそれが一番の日常の物語化ではないかとちょっと警戒さえしている、そういう経験がないのですね、と、可哀そうなやつだと思われても見下されても別にいい、忘れているだけで、あったのかもしれないし。というか現象そのものではなくその現象の記述にきっと私はいつも文句や懐疑があるんだよな。泣きたい、というときに思い切り泣くことがいい、「三十才」はおそらくそれを書いている。ほとばしる感情が思考を裏切って涙が零れる、みたいな物の言い方が許せない。十九世紀のアメリカ小説なら泣くのはいつも女だった、家庭小説というのが流行っていた、苦難に涙を流しながら少女たちが成長する、しかしその「成長」は家父長制の枠内なのかもしれない。実は『白鯨』のエイハブもちょっとだけ泣いている、特別な場面だから論文の題材になったりする。ときには論文にしないで喋ってみてほしい。二十世紀の小説になれば泣く男も増えただろう。『八月の光』でジョー・クリスマスが泣きながら女を殴る。ぱっと思いつくその他の涙、映画版『ジョゼと虎と魚たち』の最後で男が泣く。こんなふうに泣けたらいいな、と思わせる泣き方だが、男は棄てる側であって、去る側だ、そうした男の涙を(いいな)と思う時点で、ある意味での自己愛が発生している。

 

 「文は人なり」だろうか? あまり信じられない。正確に言えばそれを他人に適用してその通りだと思うようなときはあるかもしれないが自分に適用することはできない、ある程度文章が書ける人なら誰でもなんでも自由なトーンとリズム、広い可動域の持ち物で何かを書けるのではないかと思ってしまう、たとえばイラストレーターは自分の替え難い「作風」のようなものがあるように見えて実は多種多様なタッチの絵を手すさびで(あるかどうかはその人次第だが)描けるのだろう、小説や文章をあまり作らない人にはなかなか伝わらないが物書きもわりと同じだ、いっぽうで「私はこのようにしか書けない、あなたは私のようには書けない」と自他に認められるものを「文体」と呼ぶのだろうが私には文体はない。「私はこのようにしか書けない」という作家的な自己プロデュースが覇権をとりすぎていないか?と思うときもある。自分の手の内にある、ある程度の器用さを封印して、自分の地の声で原稿を作っていくことがいちばん然るべき道であることは間違いない、それが「このようにしか書けない私」に繋がっていく。「ある程度の器用さ」これが最大の敵なのだと思う、作品が却下されるたびにそう思う。とはいえ私はどうしても、その、「地の声」のようなものに疑いを持ってしまうのかもしれない。「あなたのさまざまな文章の中に共通する本当の声が好きだ」と口にするその思考の形式のようなものをあてはめられてみたいという気持ちはある、本当は「"本当の声"なんて無いんですよ」と言いたいのに、そう言われたらきっととても嬉しくなってしまうだろうという点に、物を書く人間(私)の限界も感じる、そもそも自分だってそういう物の言い方はよくする、よくするのだから本当にこの段落は「たまにはちょっとそういうことも言ってみたい」というパートであって7月25日(火)は仕事に区切りがつく日だったので夏休みが始まった気分でお酒を飲みに行った。鳥ユッケおいしい。さいきん飲んだあといつもスペースを開いている。話せて嬉しかった。7月26日(水)と7月27日(木)のことはあんまり思い出せない、半分夏休み気分とはいえひたすら仕事していた、羊文学がカバーしたゴイステの「銀河鉄道の夜」が好きになった。ゴイステ、銀杏といえば「夢で逢えたら」をよく聴いているってちょっと前の日記に書いた。「君の胸にキスをしたら君はどんな声だすだろう」という歌詞はいいと思う、たぶん十代のころは、それは、「あっ」とか「ひゃっ」とかあるいはもっと青春と性のことを無意識に想定していたかもしれない、しかし「声」という言葉にはいつも曖昧性がある、簡単な例で言えば子どもが転んだときに「うわぁん」と言ってもそれは声、「痛い」と言っても声、私があの歌詞に想定していたのは前者のほうで、「僕」が期待しているのは、もっとひとまとまりの言葉、意味をもって耳に届いてくる文としての「声」かもしれない、ん?そもそもそういう歌だったのかな、などと考えてもっとこの歌が好きになった。7月28日(金)はひとと飲んだ。相手に「あなたは男前ではないですか」とほめたら、「まあ自分でもそれは分かってる」みたいな感じで照れていたのが印象に残っている。数分後、そのひとは私に「肩の筋肉を触ってみてくれ」と言ってきた。触ってあげた。帰り際に抱きしめてくれた。あげた・くれた。もうひとりは「手指の色と同じですね」と足の爪を見せてくれた、なんだか照れて黙ってしまった。くれた・しまった。座敷は楽しい。この日の夜はそこからが永かった。7月29日(土)は低調だったが夜にカレーを作って食べたらちょっと元気が出た。深夜はツイッターでたくさんつぶやいて自分を平常にもっていく。7月30日(日)はお昼から図書館に行く。持参した「ワーニャ叔父さん」を読んでグッとくる。「ドライブ・マイ・カー」を観て以来興味があり、やっと読むことができた。やっぱりそれぞれの本の読書には適切な時期があると思う。ワーニャとソーニャが「仕事をしなければ」と言うのが本当に好きだ。この「仕事」は原語で言うとどのようなニュアンスのものなのかとても気になるし、幅の広い言葉なのではないかと勝手に期待をした。批評界や読書界(というのを想定するとして)、とにかく単なる日常や家族の話が好きではない人たちがいる、それはよくわかる、とはいえ私はそういう人たちの華やいだ文学論の影をずっと歩いてきた、古典、さらには殊に戯曲を読むと励まされるのは人間が単にそこにいて悩み怒っているだけのものに出会えるからだ、テネシー・ウィリアムズの「焼けたトタン屋根の猫」はただ一軒の屋敷のみを舞台とし、家族という枠内に居る人間たちの苦悩は世俗の域を出ないのにあんなにも心が動く。持参したものを15時過ぎに読み終わったので夕方までカポーティの伝記や北村一真『英文読解を極める』などを読む。後者は全体の三分の一くらいしか読まなかったが有益だった。なぜなら英語の先生はよく(英語は)「前から読め」「後ろから読んでもおk」「いや後ろから読むな」「英語の順番で読め」と実に多種多様な主張を言って学習者を困らせるが、この本では英語を英語の順番で読むとよい理由・困難・コツ・考え方などが非常に明晰に言語化されていた。「私は・本を・読む」という語順が「私は・読む・本を」という語順になってしまう点が、日本語と英語の違い、もしくは躓きとしてよく取り上げられるが、実はこのことは中学英語程度であれば完全にフィーリング(慣れ)、以降は文型や自動詞・他動詞というものをちゃんと理屈で捉えればそんなに難しくない。じっさい、一般的な英語を読むときに問題になるのは、「後置修飾」がふんだんに織られていることが前提となっている英文を、ひごろ日本語だけ使っている頭でどう認知していくかであって、そのあたりを非常に上手に説明していた。なるほどたしかにそんなふうに読んでいるわ、と言語化の快感があった。

 金曜日にカポーティの『冷血』を読み終わり、日曜、彼の伝記を手に取った。とりあえず『冷血』周辺の章だけ。彼は『冷血』に出てくる二人の殺人者、自分が作品の題材とし、同時に何百通もの手紙のやり取りの中で深い親交を結んだ二人の絞首刑を見届けた。彼はそのとき吐いた。私は「吐いたらしい」とは書かない、伝記は「らしい」を隠すことで成り立つ文章だから敬意を示す、そういえば『冷血』こそが、「らしい」を殺すことで成り立つ文章だった。カポーティにしてみれば「らしい」を隠すどころではなく徹底的に潰して殺すことが必要だった。あまりにも綿密な描写と、断定のスタイルをとったたくさんの判断と推測、ジャッジ。殺人犯のディックとペリー、カポーティは特にペリーに惹かれた。ペリーは、彼は幸せではなかった。そのような生涯ではなかった。そのように断定することも小説だ、それが傲慢だなんて言えるのはカポーティの内なる声にしか許されていない。私をジャッジしないで、と言ってしまう、言わせてしまう。逆に断定していくことでしか推進されない形式があなたの本棚に置かれていることにあなたは驚いてしまう。すべてが「そうらしい」「そうみたい」という小説はあり得ない。「三十才」の主人公が自分をジャッジする、「私は泣いていいのだ」。カポーティもきっと「私は泣いていいのだ」、「私は吐いていいのだ」と思った、「私は書いていいのだ」と長い長い取材生活の前後でしっかり留め打ちしなければならなかった。ほとばしる感情が思考を裏切って涙が零れる、みたいな物の言い方が許せない。

 月曜の朝は曇っていて気持ちが良かった。毎日あまりにも晴れていても仕方がない、ちなみに今はまたいつものような酷暑晴天となっている。七月もおしまい。もうほとんど誰の記憶にも残っていないバンドの「天文学的七月」という曲を聴く、天文学的な感情が思考を裏切って涙が零れても原稿料にならない。

 

学年はないけど春

 ブログを始めたのは届けるためだった。提出するため。太田靖久さんの『ののの』の感想が夏休みの宿題のようで、わかしょ文庫さんの『うろん紀行』が冬休みの宿題のようで、友田とんさんの『『百年の孤独』を代わりに読む』の感想が春休みの宿題のようだった。すべて無事に提出することができ、本の書き手とその読者のもとにちゃんと届いたであろうと信じる。もうすぐ春がくる。この前髪を切ってもらったときに「ンまぁさいきんは毎年毎年おんなじで、どこで切っても金太郎飴みたいですからね」と言ったことを思い出す。私に学年はもう付いていない。

 人が書いたものについて自分の言葉を積み立てることは、(当初の予定からすると)ほとんど終わりが近づいてきた。私は先週の火曜か水曜に掌編小説を1つブログに投稿し、今週は2/20(月)から2/24(金)まで連続で2000字〜5000字の小説を発表してみた。過去のストックやボツ作品ではありません。布団の中や散歩道で「こうなって......、ああなって......、こう!」くらいの粗さで書きたいことを考えて、あとはキーボードを叩きながら2、3時間で書きながらまとめていくのです。こんなに毎日猛烈に何かを発信したのはインターネットに動物的な刺激を得ていた10代のころ以来ではないか(そして、今もまた動物的な刺激に淫していないか気をつけなければいけない)。ブログにちょろんと発表し、その後放置していたら誰かが勝手に読んでくれていて、気がついたら好評を博していた、ということが起きるとはあまり思っていない。つまり、書きました!と看板を出したときに、どれくらいの人が偶然に自分の書きものに労力を使ってくれるかが大事だ。ほとんど運頼り。魚釣りみたいな気持ち。私はフォロワーが300人くらいで、そのうちきっと100人くらいが頻繁にタイムラインを開いていて、そのうち30人くらいが私のブログ更新に気付いてくれて、さらにそのうちの5人か3人くらいが私の小説を上から下まで読んでくれるかもしれない、その3人のために書く。それは私にとってはぜんぜんできることで、裏返せば読んでくれる人が1人もいなくても、何か創る人は自分で創ったものをひとりで眺めて満足できるくらいのどうしようもなさがないと続けられない、というのも少し余裕があるときの考え方か。個人的には「眺める棚」というのが必要で、それは人によっては本当に原稿用紙とか大学ノートで十分なのだろうが、私のような平成生まれにとってそれは、公開を前提としたブログということになるか。

 ちなみにフォロワーの方がたまにRTしてくれるが、その拡散によってまったく見ず知らずの人が「あなたは面白い!握手しましょう」みたいな都合のいいことは、今のところ起こっていない。RTしてくれる人に申し訳ないのでそのうち起こってほしいと思う。フォロワーの中には、たまにそういう反応をくださる方がいて、本当にありがたいと思います。自分の文章の読者を地道に増やしていきたいと思います。5つの短編はどれも趣きの違ったものを書いてきたので、気に入るものが見つかるかもしれません。

 小説を人に読んでもらうことはすごく大変だ。血の滲むような書き直しを経て雑誌に載せてもらっても、何も起こらず一ヶ月(掲載期間)が過ぎていくという経験を何度かしてきた。こんなにも他人から反応を引き出すことは難しいのかと思い知ったものだ。その衝撃によって数年間(泡を噴いて)気絶していたが、さいきん目が覚めた。「なんかむかし新人賞とったっぽいツイッターでなんかだらだらつぶやいてる人」ではなく、「昨年末から異様にブログを更新している無名の気持ち悪い人」として認知されれば幸いである。というか、「なんかむかし新人賞とったっぽいツイッターでなんかだらだらつぶやいてる人」とだけ見られることはかなりまずいなと思っているので、せめて「昨年末から異様にブログを更新している無名の気持ち悪い人」として認知されたい。こういう弱音系の記述はそのうち消す。

 ちなみにブログという形にはまったくこだわっておらず、同人誌やZINE作りという世界に少しずつ関心が向きつつも、まだ腰が上がりきっていない状態、というのが現状分析だ。誰かを誘って何かやってみたい、ということを考えつつも、億してしまうし、かといって、誰かに何か誘われることも特にない。とりあえず名刺のようなものは作るといいのでしょうね。こういう「匂わせ」みたいなこともツイッターに書いてしまうとぜんぜん意味が変わってしまうので、ブログを持っておくことはやはりいいことだなと思う。何かやろうぜ、という人はご連絡ください。

 

 ずいぶんむかし、2010年の冬から2011年の秋くらいまで匿名でツイッターをやっていた。匿名なのでそれなりの「キャラ」を被っていたが、だんだんとネタツイートじみたものを投稿するのではなく、「キャラ」を脱ぎ、破り捨てて、毎日毎日「小説書いています!読んでください!」と叫ぶだけのアカウントになってしまった。思ったより読んでもいいよと言ってくれた人は多くて、10人くらいに数千字の短編をまとめたzipファイルを送った。ただそのあと感想をくれた人はそのうちたしか1、2人だけで、とてもリアルな数字を感じ取った(でももらった感想はとても丁寧だった)。10年前の自分は物書きの強烈な自我がSNS上で芽吹くまで12ヶ月以上かかったわけだが、今の自分は2ヶ月ほどですぐに「小説書いてます!読んでください!」の状態になった。ところで当時の私はその後、ツイッターに飽きてアルバイトだの部活だのサークルだのに還っていったわけだが、32歳のこの私はここからどこに消えていくのだろう。

 

風景や出来事や食べ物、草花を書かないと日記でも随筆でも評論でもなく、「本当にただただブログを書いてしまった」という感じが強くて、焦る。ちょこっと書いておこう。

梅が咲いたのを昨日みた。ピータンとビールは合う。

学年はないけど春。