それが何を意味するか考えたりする

 さいきんは基本的におだやかですが仕事でも私生活でもちょっとしたきっかけで揺れたりぶれたりしてしまうからあやうい。ベンジャミン・フランクリンもにっこりの勤勉の精神で暮らしていきたいと思っております。ここ数日でとても暖かくなってきて私もエアコンや冬物のアウターにおさらばとなってきたのだが、この前私は「でも夕方からは寒くなったりしますね」と言った、この「たり」というのは、ワードの自動的な校閲機能で青線を引かれ「たり」、ライターの文章講座で避けましょうと言われ「たり」するたぐいのものであって、反復の「たり」になっていない、だけどこの「たり」はおそらく日常の中で必要とされる「たり」であって要するになにかをぼやかしている。寒くなったり雨がふったりやっぱり気温はそのままだったり星が見えたり見えなかったり洗濯物たたんでいなかったり、するのかもしれないけどもすれ違ったあなたに言うことは、「夕方からは寒くなったりしますね」。何か隠したいことがあったりするわけではまったくなくてでも、ぼやかしたり曖昧なままでべつにいいことがたくさんあったりするから私はこの「たり」を大切しようかなと思ったりした。『ライ麦畑でつかまえて』にはこの類の間隙的な表現がホールデンの語りのなかにやまほど出てくる。『ライ麦』の批評のなかにはホールデンのそのような語りが「本当は何か大切なことを語れないでいる」と着目する分析がひとやまあったりするはずで、それが「何を意味するか」ということを解きあかせれば立派な論文になる。ホールデンに対してただ、「まあむかつくこともあったりするよな」と肩をたたくことは、ある意味ではとても文学的だしある意味ではぜんぜん文学的ではない。

 

 一年中なにかのリハビリ状態というか準備運動段階みたいな気持ちで生きているのだが、午前中も図書館でぼんやりとそれが何に結びつくのかもわからずに独立革命期のアメリカを論じた本を読んでいた。読中、文章中に"define what it would mean"という表現が多いことに気が付く。「それが何を意味するのか定める」という意味だ。私たちが、アメリカの独立が何を意味するのか定めるためにはアメリカが独立したその当時に、指導者たちがアメリカの独立が何を意味するのか定めることをいかに思案し実践したということをつかまなければいけない、ということだろう。指導者、だけではなく市井の人間もその主語に入れていいはずだが、独立期に活躍したFounding Fathersと括られる人物たちについての本だったのでそう書いてしまった。私は以前、what it means という歴史的な問題よりもhow it worksという理論的な問題に関心があった。define what it meansという態度は「答え」を求めているように感じるが、たとえばquest for how it worksという態度は、「答え」に重きをおくわけではなく、言葉や、言葉がつくる社会の仕組みや力のかかりかたを裏側からくすぐってときほぐしていくような営みに思え、それを価値のあるかっこいいことだとナイーブに思っていたのである。英語を日常的に読むようになるもっと以前、友人から「君はwhatよりもhowを重視する人間だろう」とわかったようなことを言われたことを覚えていて、しかし、より深く自分や自分と世界の関係性を思索するようになってからは、それはたしかに、と思うようになった。ちなみに歴史と理論が対立するとみなすことは、歴史的にも理論的にも、あまり生産的ではない(というか、おそらく「事実」ではない)考え方だということは、今日の人文科学では常識で、私もそれを言い聞かされてきた。

 ちょうど東京から引っ越して来て一年が経ち、この日々を振り返ってみようか、などと考えるけど、まさしくいまの自分が「新しい土地で暮らすことが何を意味するのか」を考えて定めるためには、一年前の自分が「新しい土地で暮らすことが何を意味するのか」をどのように定義していたのかを思い出す必要があって、歴史的な問いは(それが奥深くシンプルな形式であるゆえに)ときに自分の小さな生活の中でも作動することを感じた。つまり、これが理論化なのだろう。

 アメリカ建国の父たちは、たとえば、独立したあとにwhat it meansをその営為の中に定めるために憲法会議を、当時の連合議会の要請を無視して、つまりこっそりと始めた。「こっそりと」というのは私の修辞で、当時は「連合規約」というものがイギリスから独立した13州をぬるく束ねるものとしてこしらえられていたけれども、「それじゃだめだ」というわけで、当時の指導者の一部が当時のもっとも大きな議会の要請や予定を裏切るかたちで憲法の話し合いを始めたわけである。これがまずおもしろい。「連邦規約を修正する」という名目の会議が「合衆国憲法創設する」という名目にハイジャックされたわけである。去年のいまごろ、私もこれからの暮らしをどうしようか、通販サイトで売られている家具の値段や、カードの利用明細や、口座の預金残高とにらみ合いをしながらいろんな案を起草した。起草というのはおおげさだな。そのとき思い出すのは同じように東京のなかで新しい暮らしを、もちろん極貧状態で、立ち起こすことを余儀なくされたときにそばにいた友人のことだ。いっしょに不動産屋に行って新しい家を探してくれて(このとき不動産屋にものすごく呆れられたというか舐められたことが苦い、いまでは面白い思い出として二人の間で残っている)、新生活が始まってからは「君はこのようにたとえば暮らすといいよ」とよれよれの紙にボールペンで私の収支表の例を作ってくれた。かならずしもその家計簿のように私は暮らさなかった(暮らせなかった)が、その紙は宝物として大事に取っておいてある。それから、彼に部屋探しの相談をしているとき、「上京してからずっと二階以上の部屋に住んでいたから、一階はやだ」とつぶやいたら「わがまま言うな」と叱られたことも楽しい思い出だ。それで、彼が探してくれた部屋はけっきょく二階だった。トイレはあるが風呂はなく、花火大会など野外のイベントで立っている「仮設トイレ」のような直方体がキッチンの後ろ側にあり、そこがシャワー室になっていた。もとから風呂をためないたちなので問題なく、月に二度くらい近所の銭湯に行くのが快かった。この仮設トイレみたいなシャワー室は、他の友人たちの必笑の種だった、いまでも笑い草になっている。もちろん洗濯機もなく、近くのコインランドリーに毎週二百円を入れた。ここの丸椅子でジャック・ロンドン『パリ・ロンドン放浪記』などいろいろと本を読んだものだ。一階には大家さんが住んでいて、ここからまた引っ越すときに自転車を捨てていこうとしたら「自転車のライトをくれ」と言われた。大家さんが二階の賃貸管理のほかになんの仕事をしていたか当時はおぼえていたが、もう思い出せない。つまりは「自転車のライトをくれ」と言ってくるような仕事だった。鉄工業だったかな。さて、部屋を探してくれた彼ともっとも盛んに万事のことで議論を交わしたり、安い飲み屋で夜を明かしたのもこの時期だった。お金はなく、貯蓄することはできないがなんとか月々の生活を回すことはできて、給料日の前は、杉並に近いほうの三鷹市の一画から、バイト先の成城学園まで自転車で一時間以上かけて通勤した。私が井の頭公園をもっとも眺めていたのもそのころだった。

 昨年の三月下旬、ふりかえると金の無駄遣いだったなと思ったが、東京から金沢へ新しい住まいの内見に行った。写真のイメージ通りの部屋で、契約についていくつか説明を受けて不動産業者と解散したあとは、近所の町中華でチャーハンを食べて駅まで一時間以上かけて歩いて帰った。自分の家がある町、「山の上」から駅まで歩いたのはこれが最初で最後だった。そういうことは(そういうことを)しなければならないと思ったのだ。歩いているうちに、生活の空気がつかめた。とてもあたたかく晴れた日だった。私はここに越して以降、北陸の天気の不安定さを友人たちやSNSでしょっちゅう愚痴ることになるが、この日と、引っ越して来てからの数日間はとても穏やかな日で、それが土地との出会いとして運がよかったと思う。ようやく駅まで着いたらふかふかした気分になって、駅近くにあるスパ施設で温泉に入ったりマッサージチェアでビールを飲んだりした。ビールを飲みながら、先に書いてきた友人に「極楽」の旨をメールしたら、おそらく自分が新しい土地で楽しく暮らせる予感を読み取ってくれたのだろう、温かい返事がきた。

 そのあと引っ越す前日に彼と飲んだ。彼は餞別にイオンの商品券をくれた。前々から「引っ越したら映画が映画館で気軽に観られなくなる」と言っていたので、それを覚えておいてくれたのだろう。気軽に観られない、というのは経済的にというより映画館が自分の家から遠く離れたところにしかない、という意味だ。彼は金沢の大きな映画館のひとつは駅前のイオンシネマだと自分で調べて、たまに人里へとくだる機会があればその商品券で映画を観るようにと私にそれをくれたのである。私は地方に引っ越すにもかかわらず、車を持っていなければその目処もたたなかった。引っ越してから数週間経ってパソコンの画面越しに、「やっぱり家の周りしか出歩けないね、駅の方まではおっくうでなかなか、自転車くらい買おうと思っているんだけど」とぼやいたら彼が、映画ではなく自転車を買うでもなんでもいいから商品券を役立ててくれよなと言っていた。けっきょく商品券はまだ押入れのなかにしまってある。自転車も買っていない。だけど映画をこっちでもよく観るようになった、どこにどんな映画を上映する館があるかわかってきた。

 先日一週間ほど東京にいたのだが、そのときに彼に彼女を紹介した。開口一番、「おくやまくんはやさしくないんですよ」と彼が言って、私は笑った、またおどろいた。過去の日記(いまはブログから消していて、赤い日記本の夏の記述にある)に私の書いたエピソードの通り、彼がそのエピソードを語るので、私はうれしく、また面白かった。夏に「合宿」をしたさい、みなで一緒に泊まっていた宿泊施設まで戻る途中、彼が「鍵どこだっけ?誰がもってるっけ?」などと訊いたら私が「しらない!」と言った件である。その前の夜、酔っ払った私が「自分はやさしくなったと思う!」と豪語していたものだから(いま思うとどんな話の文脈だったんだろうねそれは、それじたいが笑いの種だ)、彼はそのとき苦笑し、おいちょっと待てと思ったことだろう。

 そんな感じで何も考えずにただ気の向くままにキーボードを叩いていったらむかし話みたいな日記になってしまったのだが、今の私は自分の暮らしをとくに理論化する段階には至っていなかったのだろう。いい機会だから自分の暮らしの中に必ず出てくるけどとくに語ってはいなかった人物のwhat it meansとhow it worksを書きながら感じたかったーーそれは定めたかった、という心の態度よりも「やさしい」ものが宿るように思うーーのかもしれない。3月もおしまい。さてさて、さいきんの私の日記にたまに出てくるりさこさんが文学賞をいただいた。ほんとうにおめでとう。私はそれをちょうど十年前の十回前にいただいていて、おめでとうの気持ちと(そんなに経ってしまったのか......)というがくぜんもある。私は文芸時評をまとめた本のなかでは荒川洋治の『文芸時評という感想』がとても好きなのだが、この前、集中力が切れたときのつなぎつぶしに(この、つなぎつぶし、という言葉はよいでしょう)ぱらぱらとそれを読んでいて、とある作品を評しているなかでの次の一節が目に入ってきたとき、私はその人のことがふと思い浮かんだ。

小説家は自分の文章を客観的につかむことはできない。だがあちらこちらの文芸誌から仕事がくる、書くことを仕事としてやっていけるということで、かろうじて自分の文章を信じることになる。文章が次々に掲載されるようになると、文章がどのようなものであるかなどどうでもよくなる。文章を求められている。「現在」をもっている。それでいいのだ。多様性どころか文章を書く人の気持ちというものは単純なものである。

一般的にはこれは、もの書く人が賞をとってデビューしてからの次第である。とはいえ時代も変わり、人は必ずしも文学賞を取らなくても自分の書いたものがさまざまな人に読まれ、愛され、商業的ではなくとも人に求められ、「現在」をもつことができるようになった。そう言ってしまうとどうしても甘い話のように聞こえるから、「現在」をもとうとすることができるようになった、と言うほうが適切だろうか。そういう意味での新しい書き手が、このたび新しく舞台を広げたとこの一件を捉えることができる。これも以前日記に書いたことだが、私は若いころに(今も若いか)「おめでとう。おれもがんばるよ」と言われたことがもいちばんうれしかった、だから、同じ言葉を渡したい。けれどもあなたは、選んだ道や、選ばされた道によってはどうがんばればいいかわからずにとぼとぼと道を歩くしかないときもある。そんなときは、自分の信頼する人たちが、そのそれぞれに従事している「仕事」をこちらへ示してくれることによって自分の気持ちに変化をもたらすのだろう。今回の日記は、私にとってのそんな人たちについてふれた一節になっただろうか。自分の歌う歌がいつでも、自分の内側に大事にしまってあるとは思っていけない。