私が生活費を得るためにしている仕事は起きる時間や家に帰る時間が毎日ばらばらで、金曜日はいつも早い時間にお酒を飲みに行き、お店に人が集まるころにはお会計をし、週末の浮足立ってくる街をあとにする。でも今日はたまたま家にいるので店に行くかわりに日記を書こうと思った。
とはいえ日記=日々=日々のお仕事であるとすれば、私は日常の仕事についてあまり書こうとは思わないから、あまり書くことがないことになる。「あまり書こうとは思わないことについて」を書くことになる。とはいえ、
起きる時間が毎日ばらばらで、基本的にはそこそこ朝が早い。私はツイッターで400人くらいフォローしていてだいたい200人くらいの人がアカウントを動かしていると思う、200人は大きな会社の同期の人数であったり小学校や中学校の同級生の人数くらいのサイズなのでこのくらいだとみんなのことを覚えていられる。それでさいきんの私はさらに、この人も朝が早いんだろうなという20人くらいのことを覚えつつある。冬の朝には共同感がある。とか言ってみたりだ。
仕事をする自分の生活をいっさい発信しない人もいる。それは仕事の内容や自分の気質に規定される。私の職種の場合は発信する人はする、人間と接する仕事だから出会った人間の言動や自分の講義したことをツイッターなどに誠実な感じやおどけた感じで書く、告発も反省も述懐もオモシロもある、だけど今のところ私はあまりしていない。それは自分は「それを上手くできる」と思うからだ。今日起こったこんなことをこんなふうに書いたら誰か面白がってくれるだろうなと思うからこそ書かない。そこにやどる安直さと他人を使おうとする身振りに厳しさがはたらく。仕事で出会う人間だけではなくて、一緒に暮らしている人間や動物についてもだいたいそうだ。二週間に一度、一緒に暮らしている人間の言動を、ふとつぶやいてみたくなるくらい。小説にはなんでも使ってやろうと思う気がする。自分が好きだと思う小説の形に甘えているからじゃないのか。
いちおう書くけど、もちろん、フォローしている人のペットの話や家族の話は何も気にならない。しかし、ふと流れてくる、誰かさんの「うちの子の面白言動ツイート」は苦手だ。苦手というより受け付けない気分のときがある。読めばまあ面白い、とか、興味深い、と思うからこそそれはバズっているがそこに自己批評がない。基本的に子どもネタは三割り引きなのだ。自分の支配圏にある生き物の様態を観察し描写するときの充実感がふとした瞬間に切断されるときにこそ別の観察が生じるのではないか。「『子どもの豊かな発想に打ち破られちゃった大人の価値観!』的なツイート」に、小さき者の豊かな発想も、これまでの価値観や思想も無いにきまってる。ここまでの記述は自分の甥のことを文芸誌の随筆欄に書いたことがある私自身への批判でもある。ごはんのツイート大好き。しかし既製品の食べ物写真はあまり好きじゃないのかも、とさいきん気づいた。productを私的なスペースに掲載する根本的な羞恥心みたいな。でも人の手が焼いた鶏肉の醤油の照りや、茹でたキャベツのひだ、自分の住まいが表現するすべての光彩にこそ「恥」はあるのではないか?しかしそれを肯定する、好むということはボタンをひとつ押すだけでも何かしらの愛情表現であることを裏付けるのだろう。
私は一緒に住んでいる人間や一緒に住んでいる動物や仕事で接する人間の様態をインターネットに贈呈できない(でもきっとこれからたまにすることもあるのだろう)。学生時代に後輩から「板垣さんのツイートにはほとんど固有名詞が入っていますね」と言われたのをとてもよく覚えている。その通り、自分自身から何か湧いてでてこなかったら固有名詞にぶらさがる。赤松利市さんの『鯖』を少し読んだ。ツイッターを始めた(再開した)さい、すぐにフォローしてくれた人だ。だからこの前何冊か買ってみた。この人の始発バスの写真や朝ご飯の写真は好きなひとが多いと思う。文章が、あれ、あんまり上手くない...?と思っていると急に綿密な描写が展開されたりして、その緩急じたいが良いのかもしれない。宮崎智之さんとわかしょ文庫さんの「随筆かいぼう教室」を視聴したあとすぐに宮崎智之さんの『平熱のまま、この世界に熱狂したい』と掘静香さんの『せいいっぱいの悪口』を買ったがまだ開いていない。どちらも読んだら感情がワーッとなってしまいそうで今はあまり「ワーッ」にはなりたくないので積んでいる。堀さんとは年齢や職業が近く、その生活の記録を一度めくってしまえばおそらく一気読みになるだろう。武塙麻衣子さんの『驟雨とビール』を読んでまた違う意味でワーッとなる。自分の食生活を省みて。『ことばと』の最新号を買って新人賞の選評を読んだ。カギカッコについての議論があった。とても目に残る。各自からまとまった評論やエッセイとしてその考察を読んでみたい。以前、図書館で『ことばと』の新人賞各回の選評を読んだが少々不満があった。「この人を送り出そう!さあ読んでみてください!」という気持ちがあまりないように思え、批評家某氏の忠告というか愚痴みたいなことが半分を占めている。その文章は特に芸にもなっていないため、読者を受賞作の紙面にわたすブリッジになっていなかったのではないか。私は鹿島田真希さんがデビューしたときの松浦理英子さんの選評の結語がとても好きだ。当時の文藝賞の選評は今と比べるときわめて短い分量なのだが熱が凝縮されている。「新人、鹿島田真希を送り出す。」
ちなみにオタクっぽい話を添えておくと、このときに競ったひとりが柴崎友香さんである。
某氏は今回の座談会でも少し違和感があった。選考委員が候補作をあーだこーだ言う。その候補作は編集主幹の批評家某氏が他のひとたちと前もって選んだものである。相対的な良さをみとめて選んだんでしょ。だったら「あーだこーだ」に対して「そっすねえ!」的な身振りではなくディフェンスの立場を取るのが自然だと思ったのだが.......。わからん。座談会式の選評では候補作に対するテンションの高さと低さがその形式に調整されてマイルドになるなと思った。つまり私は当選作2つに対するもっと温度の高い推奨を読みたかった。しかし山下澄人さんの言葉にはたしかものすごい箇所がワンブロックほどあったな。それは推奨の逆だったが。くだりではなく個人の発言であったらそこがいちばん読み応えがあった。山下澄人さんの『君たちはしかし再び来い』をツイッターでも書いたように半分ほど読んだ。たぶんこの土日でもう半分を読み切るだろう。タイトル、まじで好きだな。『CALL magazine』を読んで1ヶ月ほど経った。これについて言及するときに私はlaborという言葉を使った。コンビニに行って番号を打って小銭を入れて紙を受け取るというlaborである。日本語だとちょっとしたニュアンスが削がれるように思う。いまあなたがツイッターの画面から飛んできてここまでスクロールしているのも多大なるlaborだと思う、サンキューだな。ところで新人賞の当選作、福田節郎さんの『銭湯』と井口可奈さんの『かにくはなくては』は近いうちに読むと思う。福田さんの酒の写真ばかりをふぁぼっているのはなんだか(あくまで私自身は)仁義がないように思える。井口さんも日記が面白くていつも読んでいる、だから小説も読まなくちゃと思う。
心をlaborさせる、という見習い時代によく言われたことを大事にしている。
学生のころ、文学理論の授業で休講があった。そのあと、「図書館に行って批評の本を手に取ってそのレポートをすること」という補習が出された。よく読んでほしいのだが、本の内容をレポートするのではないですよ。図書館に行き、検索機で何かを調べ、該当する棚に向かい、その本を目と手で探しとり、表紙を触ったり目次を眺めたりページ総数を確かめたりして、その次第を小さい紙に報告するだけの補習だった。当時は、なんて手抜きで、なんて楽な指示なんだろうと思ったが......。言うまでもなく、先の言葉を言った人とこの補習を出した人は、同じだ。
思いつくままだらだら書いていたら「まとめ」的なことにたどり着いた。左へカーブを曲がると違う海が見えてくるのである。私はあの補習みたいにlaborしたいし、させたい。それはもしかすると、私がいま自分の仕事だと思っているすべてのことに通じることなんだろうか。少し体を動かして何かを求めたとき、探したとき、あなたの言葉をふだんより少しでも遅く読んだそのときにlaborは生まれている。