あの補習くらいのlabor (2023年1月)

 私が生活費を得るためにしている仕事は起きる時間や家に帰る時間が毎日ばらばらで、金曜日はいつも早い時間にお酒を飲みに行き、お店に人が集まるころにはお会計をし、週末の浮足立ってくる街をあとにする。でも今日はたまたま家にいるので店に行くかわりに日記を書こうと思った。

 とはいえ日記=日々=日々のお仕事であるとすれば、私は日常の仕事についてあまり書こうとは思わないから、あまり書くことがないことになる。「あまり書こうとは思わないことについて」を書くことになる。とはいえ、

 起きる時間が毎日ばらばらで、基本的にはそこそこ朝が早い。私はツイッターで400人くらいフォローしていてだいたい200人くらいの人がアカウントを動かしていると思う、200人は大きな会社の同期の人数であったり小学校や中学校の同級生の人数くらいのサイズなのでこのくらいだとみんなのことを覚えていられる。それでさいきんの私はさらに、この人も朝が早いんだろうなという20人くらいのことを覚えつつある。冬の朝には共同感がある。とか言ってみたりだ。

 仕事をする自分の生活をいっさい発信しない人もいる。それは仕事の内容や自分の気質に規定される。私の職種の場合は発信する人はする、人間と接する仕事だから出会った人間の言動や自分の講義したことをツイッターなどに誠実な感じやおどけた感じで書く、告発も反省も述懐もオモシロもある、だけど今のところ私はあまりしていない。それは自分は「それを上手くできる」と思うからだ。今日起こったこんなことをこんなふうに書いたら誰か面白がってくれるだろうなと思うからこそ書かない。そこにやどる安直さと他人を使おうとする身振りに厳しさがはたらく。仕事で出会う人間だけではなくて、一緒に暮らしている人間や動物についてもだいたいそうだ。二週間に一度、一緒に暮らしている人間の言動を、ふとつぶやいてみたくなるくらい。小説にはなんでも使ってやろうと思う気がする。自分が好きだと思う小説の形に甘えているからじゃないのか。

 いちおう書くけど、もちろん、フォローしている人のペットの話や家族の話は何も気にならない。しかし、ふと流れてくる、誰かさんの「うちの子の面白言動ツイート」は苦手だ。苦手というより受け付けない気分のときがある。読めばまあ面白い、とか、興味深い、と思うからこそそれはバズっているがそこに自己批評がない。基本的に子どもネタは三割り引きなのだ。自分の支配圏にある生き物の様態を観察し描写するときの充実感がふとした瞬間に切断されるときにこそ別の観察が生じるのではないか。「『子どもの豊かな発想に打ち破られちゃった大人の価値観!』的なツイート」に、小さき者の豊かな発想も、これまでの価値観や思想も無いにきまってる。ここまでの記述は自分の甥のことを文芸誌の随筆欄に書いたことがある私自身への批判でもある。ごはんのツイート大好き。しかし既製品の食べ物写真はあまり好きじゃないのかも、とさいきん気づいた。productを私的なスペースに掲載する根本的な羞恥心みたいな。でも人の手が焼いた鶏肉の醤油の照りや、茹でたキャベツのひだ、自分の住まいが表現するすべての光彩にこそ「恥」はあるのではないか?しかしそれを肯定する、好むということはボタンをひとつ押すだけでも何かしらの愛情表現であることを裏付けるのだろう。

 私は一緒に住んでいる人間や一緒に住んでいる動物や仕事で接する人間の様態をインターネットに贈呈できない(でもきっとこれからたまにすることもあるのだろう)。学生時代に後輩から「板垣さんのツイートにはほとんど固有名詞が入っていますね」と言われたのをとてもよく覚えている。その通り、自分自身から何か湧いてでてこなかったら固有名詞にぶらさがる。赤松利市さんの『鯖』を少し読んだ。ツイッターを始めた(再開した)さい、すぐにフォローしてくれた人だ。だからこの前何冊か買ってみた。この人の始発バスの写真や朝ご飯の写真は好きなひとが多いと思う。文章が、あれ、あんまり上手くない...?と思っていると急に綿密な描写が展開されたりして、その緩急じたいが良いのかもしれない。宮崎智之さんとわかしょ文庫さんの「随筆かいぼう教室」を視聴したあとすぐに宮崎智之さんの『平熱のまま、この世界に熱狂したい』と掘静香さんの『せいいっぱいの悪口』を買ったがまだ開いていない。どちらも読んだら感情がワーッとなってしまいそうで今はあまり「ワーッ」にはなりたくないので積んでいる。堀さんとは年齢や職業が近く、その生活の記録を一度めくってしまえばおそらく一気読みになるだろう。武塙麻衣子さんの『驟雨とビール』を読んでまた違う意味でワーッとなる。自分の食生活を省みて。『ことばと』の最新号を買って新人賞の選評を読んだ。カギカッコについての議論があった。とても目に残る。各自からまとまった評論やエッセイとしてその考察を読んでみたい。以前、図書館で『ことばと』の新人賞各回の選評を読んだが少々不満があった。「この人を送り出そう!さあ読んでみてください!」という気持ちがあまりないように思え、批評家某氏の忠告というか愚痴みたいなことが半分を占めている。その文章は特に芸にもなっていないため、読者を受賞作の紙面にわたすブリッジになっていなかったのではないか。私は鹿島田真希さんがデビューしたときの松浦理英子さんの選評の結語がとても好きだ。当時の文藝賞の選評は今と比べるときわめて短い分量なのだが熱が凝縮されている。「新人、鹿島田真希を送り出す。」

 

ちなみにオタクっぽい話を添えておくと、このときに競ったひとりが柴崎友香さんである。

 

 某氏は今回の座談会でも少し違和感があった。選考委員が候補作をあーだこーだ言う。その候補作は編集主幹の批評家某氏が他のひとたちと前もって選んだものである。相対的な良さをみとめて選んだんでしょ。だったら「あーだこーだ」に対して「そっすねえ!」的な身振りではなくディフェンスの立場を取るのが自然だと思ったのだが.......。わからん。座談会式の選評では候補作に対するテンションの高さと低さがその形式に調整されてマイルドになるなと思った。つまり私は当選作2つに対するもっと温度の高い推奨を読みたかった。しかし山下澄人さんの言葉にはたしかものすごい箇所がワンブロックほどあったな。それは推奨の逆だったが。くだりではなく個人の発言であったらそこがいちばん読み応えがあった。山下澄人さんの『君たちはしかし再び来い』をツイッターでも書いたように半分ほど読んだ。たぶんこの土日でもう半分を読み切るだろう。タイトル、まじで好きだな。『CALL magazine』を読んで1ヶ月ほど経った。これについて言及するときに私はlaborという言葉を使った。コンビニに行って番号を打って小銭を入れて紙を受け取るというlaborである。日本語だとちょっとしたニュアンスが削がれるように思う。いまあなたがツイッターの画面から飛んできてここまでスクロールしているのも多大なるlaborだと思う、サンキューだな。ところで新人賞の当選作、福田節郎さんの『銭湯』と井口可奈さんの『かにくはなくては』は近いうちに読むと思う。福田さんの酒の写真ばかりをふぁぼっているのはなんだか(あくまで私自身は)仁義がないように思える。井口さんも日記が面白くていつも読んでいる、だから小説も読まなくちゃと思う。

 

 心をlaborさせる、という見習い時代によく言われたことを大事にしている。

 

 学生のころ、文学理論の授業で休講があった。そのあと、「図書館に行って批評の本を手に取ってそのレポートをすること」という補習が出された。よく読んでほしいのだが、本の内容をレポートするのではないですよ。図書館に行き、検索機で何かを調べ、該当する棚に向かい、その本を目と手で探しとり、表紙を触ったり目次を眺めたりページ総数を確かめたりして、その次第を小さい紙に報告するだけの補習だった。当時は、なんて手抜きで、なんて楽な指示なんだろうと思ったが......。言うまでもなく、先の言葉を言った人とこの補習を出した人は、同じだ。

 

 思いつくままだらだら書いていたら「まとめ」的なことにたどり着いた。左へカーブを曲がると違う海が見えてくるのである。私はあの補習みたいにlaborしたいし、させたい。それはもしかすると、私がいま自分の仕事だと思っているすべてのことに通じることなんだろうか。少し体を動かして何かを求めたとき、探したとき、あなたの言葉をふだんより少しでも遅く読んだそのときにlaborは生まれている。

 

 

館の犬

館の犬

 

 初めて新幹線ではなく車で実家に帰ってみたが、車を走らせていてもそこを歩いているようだった。紫の服を着た、たくあん色の老人が、ベランダとベビープールのあいだで、西瓜の食べかすを干していて、ランニングシャツを着た、ほくろだらけの老人が、犬を散歩させていた。糞を拾おうとしている。その人の、浮いた乳首や丸く豊かな腹部に、毛並みのわるい小麦色の犬が、鼻をぶんぶんと突き出していて、この風景が静かに動いている。商店街の店々がシャッターを下ろす音とすれ違うと、それが蝉の一日の終わりのようだ。さっきの犬は、もう疲れているのだ。

 茶の間で、年の離れた弟が、もう二二にもなるのに、母親からこれを手伝えあれはどうなったと言葉を投げられても、あん、ぬむ、にゃ、などとしか受け答えしないから、私は呆れていた。冷房の効いた部屋で、彼は寝転がって携帯電話をさわるばかりである。母親の矛先が私に向かって、夕飯のお使いを頼まれたとき私が、

「はい」

と言ったので、弟は改めておどろいたらしい。晩酌しているときに、弟が母に、それにしてもなんでこの人は前々からこんなに従順なのかと訊いた。従順という言葉には、私も母も少し違和感があったが、母は弟が生まれる前の、昔の話をした。あの頃はとても厳しい祖父、よくもわるくも家父長制の化身みたいな人がまだ生きていて、私は七つのとき、祖父に倉庫に閉じこめられた。それがきっと大人しくなったきっかけだったろうと、母は話の同じところでぐるぐる回って黄色い舌を焼酎グラスにすえる。倉庫は取り壊されて、どんな場所だったかあまり思い出せない。

 倉庫の中は段ボールや古い自転車の匂いがした。目が慣れると昔の家電製品のポスターとか看板が目に入った。角張った古い字を読めた。オード、テキン、アルカリ、ナショナル。尻が濡れているのかと思って何度も地べたをさわった。そうではなかった。ただ冷たいだけだった。そのひんやりした感じが下半身になじむと、私はそこではじめて安心したのだ。ズボンと下着を脱いで、直に尻を地べたにふれさせた。早く出してくれと泣き叫んでいたのに、いまは誰にも来てほしくなかった、誰にも見られたくなかった。たぶん私はそのとき笑っていた。古い自転車のペダルが削れていたのでその表面をさわりたかった。

 そんなふうに私のなかに余裕がでてきたのは、その倉庫がスーパー鈴井の裏のプレハブ小屋とは違っていたからだ。閉じこめられても自分の家なのだ。よく見回してみれば去年の売り出しのときに立てていたノボリもあるではないか。あのプレハブ小屋はとても背が高く屋根に傾斜があった。甘辛い味まで舌の裏についてきそうな獣の匂いと、みずみずしい糞と、それが乾くとどのように哀れっぽくなるか、人に手入れされていない犬の表面の荒々しさ、私はいろいろとその小屋で学んだ。人に手入れされていない建物は、その面積以上に広く感じることも、その小屋で知った。当時はそこをプレハブ小屋ではなく館と呼んでいたと思う。地べたは泥土と糞尿が混ざり合ってかどろどろしており、建物の中では、そこに立ちこめる熱い空気の底に黒い沼が広がっているようだった。館の天井は暗くて高く、どのように進めば上部に行けるのかわからない、目に見えている犬の他にも親玉の獣が隠れているのではないかと思わせる。しかし足を踏み入れたら取り返しのつかないほど汚れてしまうのではないかという直感が子供にはあり、わずかに陽の差す入り口の辺りにしか、しゃがみこんだことはない。小屋の入り口に犬が三匹ほど繋がれていて、他の犬は首輪もないままに一帯をたむろし、館を行き来していた。ほとんどの犬はずいぶん疲れていたから、私の遊び相手になるのはいつもきまった、小柄な、一匹か二匹だった。

 ある日にもその一匹か二匹(何か適当な名前をつけていただろうが覚えていない)に餌をあげるなりしていたら、そこに少し大柄なやつが割り込んできた。この子もとうもろこしがほしいのだろうか? 犬はずっしり腫れ上がった赤黒い陰茎を私と幼馴染のみいなちゃんに見せてきた。先端には白いものが木工ボンドの粒のようについていた覚えがある。犬はずいぶん困った様子で、みいなちゃんは、うへへ、うへへ、と笑っていた。伸びたり縮んだりして、そのうち切れて、赤い汁が垂れるのだと考えた。みいなちゃんは、おじいちゃんに訊いてくると言ってくれて、しかしその日はそこで別れてしまった。次の日に、みいなちゃんが言うに、あの犬は緊張していたのである。私は納得した。館の犬に会いに行ったが、彼は張り詰めたものをすっかり仕舞って、もうずいぶんと落ちこんでいた。そして元気な子犬たちを尻目に、いつものように館の中へ消えていったのだ。

 だから、私は、あの館に比べればと思えば、倉庫に閉じ込められることは怖くなかったのである。あのころ、祖母によく傷んだ性器を診てもらった。ちゃんと清潔にしているつもりなのに、汚くするなといつも注意されて困った。ずいぶんむごいものがあるのだと思った。祖母は家族の中で唯一しくしくと泣ける人だった。私が六歳のとき、祖父が文字通り食卓をひっくり返したときは、祖母は、それはもう背中から泣いているような様子になって、私に「謝りなさい」と震えた声で諭したものだった。その祖母が、飯も与えられていない私を案じて、倉庫に近づいてくる! 祖母は泣いているだろうかと思うと、私は落ちこんで反省したのである。このひんやりした倉庫の床に尻をつけていると気持ちが良いけれど、祖母の気配を感じたらすぐにズボンを上げなければいけない。なんだか緊張してきて、私はいよいよ今までの自分を悔い改めなければいけないと強く感じたのである。

 

初出:ODD ZINE Vol. 9

『代わりに読む人0 創刊準備号』の感想

 私は文芸誌がけっこう好きだ。大学院生が使う研究棟に、サロンというか「図書室」みたいなところがあって、ここに98年から03年くらいの『文學界』や『新潮』がずらりと並んでいた。私は勉強に疲れると、ここに置かれたソファに身を沈めて雑誌をめくったものだった。雑誌の中では、今では大御所の風格をまとっているさまざまな作家が、新人として作品を発表したり、選評や批評を受けていた。『文藝』なんかは、時期ごとに紙面の感じがまるきり変わっていくのでとても面白い。保坂和志さんの言葉だったか、「文芸誌に載ってる小説なんか読まずに昔のものを読め」というのがある。ただ、そう言っている保坂さんと若き日の阿部和重さんの対談など、きわめて面白く何度も読み返した(『群像』)。また、新人賞の受賞作品などはやはり雑誌で読むと心地が違う気がする(いくら校正校閲が入っていても、ハイ、海から引き揚げたばかりですよ、みたいな感じが強い)。そんなわけで、私の中で文芸誌とはいわゆる「五大文芸誌」のことだった。だから『代わりに読む人』を手に取ったときは世界が広がったように思えた。これを気に入った(気に入っている)方は、きっと「こんなにいい雑誌、みんなまだ知らないの?自分が代わりに読んでおくよ」という気持ちになる(なっている)だろう。とある方の評言を借りれば、この本はとても「抜けがいい」。詳細は以下のURLをどうぞ。

 

www.kawariniyomuhito.com

 

 「図書室」からも「五大文芸誌」からもとっくに離れてしまっていた2022年の私は、ここまでの記事で書いてきた通り、音楽業界のように言ったら、インディーズ文芸のような領域で読み書きをした(ただし、二項対立を過度に強調したくはない、メジャーとインディーズの往還運動で熱を発することが必要だと考えている)。夏、友田とんさんの文筆活動は太田靖久さんの活動を通じてなんとなく知り始めていたが、今となっては、彼もまた太田さんと同じように「往還」により周囲を巻き込んで熱を起こしている(私にとって)重要人物であることがわかった。このあたりのお二人のスピリットについては、『ふたりのアフタースクール』をご参照いただきたい。

 友田とんさんの出版レーベル「代わりに読む人」が世に出した『代わりに読む人0 創刊準備号』は創刊号ではない。創刊準備号であって雑誌の特集は「準備」だ。私自身も今年の夏にひたすら「準備運動」をしているような感覚で暮らしていたため、この人を食ったようなコンセプトが一目で好きになった。新鮮な読書体験だった。「準備」をリハーサルのような言葉として考えてみると、「準備」とは本番の「代わり」である。本番の代わりである以上、「準備」は具体的な軌跡を残す。だから「準備」もひとつの形ある成果である。巻頭言には「『公園』を目指す」と書かれているが、その通りに、執筆陣みなが開けた場所で自由に体操しているような雰囲気が、五大文芸誌にはない特有のものを紙面に授けている。これは、ほぼ全ページにわたって展開されている佐貫絢郁さんの挿画にも表れているだろう。そもそも、「代わりに読む」というフレーズが私はとても好きで、わかしょ文庫さんに対しても同様のことを直感したのだが、「この人はきっと大事なことを知っているんだな」という気持ちを私は抱いたのだった。友田さんに直接お会いしたとき、はじめはおそらく接する人みなにしているかもしれないセールストーク(本内容の紹介)を興味深く拝聴したのだが、「私は、言葉は常に何かの代わりでしかない、と習ったことがあります」と口にしてみたら、友田さんは表情や肩の感じをまるきり変えて耳を立ててくれた。外国で言葉が通じたのと同じ感じがしてなんだかうれしかった。その節はありがとうございました。

 

 以下に掲載されている文章の感想などを短く書いていく。

 

二見さわや歌 / 「行商日記」

この文章には外界に対する独特の距離感があって、でも考えてみれば独特でもなんでもない(これはつまり平凡ではなく普遍性があるということです)、それをけれんみなくつっつっと言葉にできる二見さんの感性が固有なのだとおもった。

「私はお金を受け取る。その一部始終をへえーという顔つきでさっきの男性が見ている。ズボンに小さく穴が開いているけれど、なんか綺麗な人だなと思った。」

次の箇所は私のいちばん好きなところで、少し笑えるような感じもある。

「「本当に戻ってきたんですね」「当たり前でしょ」(そうかな。別にどちらでも何とも思わない)」

この男の人とのやりとりはぜんぶ面白い。

「「それ一箱何枚?」「8枚です」「食べ切れないかな?」「そんな食べなくていいです」」

こんな会話のあとに、いきなり(でもないか)父親の人生の話になっていく。

 

二見さんの文章もすごいが、これを巻頭に置く友田さんの編集力もすごい。文芸誌の巻頭には詩やイラストレーションが置かれることが多いけれど、確かにこの文章はそういったものの代わりになっていると思う。つらつらとつづいていつの間にか終わっているような日記だが、永久に読んでいられそうだった。私たちがこの雑誌に入っていく心の準備をする機会として絶好の配置だろう。

 

「時々ここでやっちゃダメって言われる。そのあとしばらくぼーっとしてしまう。私は本当の自分の気持ちを知っている。決まっているからダメ、はイヤなのだ」

 

伏見瞬 / 「準備の準備のために、あるいはなぜ私が「蓮實重彥論」を書くことになったか」

連載が楽しみだ。準備している各章のタイトルに「5、とにかく明るい蓮實重彥」とある。「蓮實の文章を読むと気分が明るくなる、という実感があって、それはなかなかに本質的なことな気がしていて、どうにか言葉にできないかと画策しています。」と説明されているが、同意する。掴んだものをぜひ読みたい。ちなみに私は、高山宏先生の文章も元気が出る。

 

田巻秀敏 / 『貨物船で太平洋を渡る』とそれからのこと

船乗りとして青年期を過ごした作家を研究しているからか、見過ごせなかった。航海の準備として船舶無線の訓練では「「DISTRESS(遭難)ボタン」を操作するシナリオ」もあったという。その作家の小説でもdistressという言葉は印象的に出てくる。精神的な状況も意味するので面白い言葉だ。田巻さんは、とても文章が端正であるように思った。事実の記録は端正につづると小説のようになるということがよくわかる。題に挙げられている本はいつか拝読してみたい。

 

近藤聡乃 / 「ただ暮らす」

「少しだけ準備中の気分でただ暮らす。」というステップは雑誌全体を貫いているように思った。9. 11のあと、アメリカはずっと何かの準備をしている。

 

橋本義武 / 「準備の学としての数学」

この人に何かを連載してほしいと思った。引用したいところは数多い。「半分開かれたものの準備は何だか楽しい。」

 

柿内正午 / 「会社員の準備」

「会社員」という立脚点があるからか、特集のなかでもじっくりゆっくりと跳び技なしで「準備」を考察しているように感じた。読み応え抜群。「プルーストを読む人」として頭に記憶されているが、この人のファンにもなりつつある。朝に顔を洗うかどうかということが話題のひとつして文章がすすんでいくが、まさに私は、とある理由で集団生活をしていた時期、顔を洗わない友人に接して驚いたときがある。

 

佐川恭一 / 「ア・リーン・アンド・イーヴル・モブ・オブ・ムーンカラード・ハウンズの大会」

英語をカタカナに写すとき、単語と単語の間にナカグロを入れて表記するという慣習がある。たとえば「イン・マイ・ライフ」や「ゲット・バック」だったらぜんぜんオーケーで、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」や「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」くらいから大丈夫かな…、となってきて、「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」とかはもうちょっとまずいのではないか、という気がする。この文章はそんな気まずさを書いているように思えた。ほとんど句読点なく進むこの書き物は、自分に合う新しい言葉の服を被りたがっているが、まだ叶わないのでその準備をしているようである。

佐川さんのファンからすれば「え?おまえもしかしてこの店初めてなの?肩の力抜けよ」と思われるかもしれませんが、ご笑覧ください。

 

 

かいつまんで感想を書いてきたが、書かなかったからといって響かなかったわけではない。ただ、読むと同時に感想も浮かんだのは以上の通り、といった具合だ。次の号が出るまでに、このブログかツイッターでなるべく多くの文章にふれたい。たとえば、発行者(編集長?)の友田とんさんの文章が雑誌の中に繰り返し出てくるが、どれもすべて面白かった。しっかりと雑誌を引き締めている。友田さんは23年の1月に単著を出すようなので、それも拝読して、そのうちに「友田とん特集」をここに書きたい。とりあえずは、お正月に『「百年の孤独」を代わりに読む』を開くのがたんたんたのしみである。

 

 

荒地と宝石

 「ODD ZINE」に参加した人たちの来歴や太田さんの文筆活動を追っていくうち、私は『代わりに読む人』という出版社(そして文芸誌の名前でもある)を知った。そこの第一刊行物が「ODD ZINE」にも寄稿していたわかしょ文庫さんの『うろん紀行』だ。私は『代わりに読む人』と『うろん紀行』を同時に購入し、ぱらぱらと読んですぐにこれらは素晴らしい本だと思った。この記事では、『うろん紀行』の感想を書いていく。

 『代わりに読む人』の発行人である友田とんさんもわかしょ文庫さんも、ツイッターにアドレスを載せているので、読んだ感想をダイレクトに伝えることもできた。しかしメールには題名と署名が必要だ。「題:【本、読みました】本文: 自分、いたがきって言います。あのぉ…」と突然メッセージを送られても困るだろうと思った。そこで本に挟まれていた「読者カード」を使うことにした。そういえばこういうものって生まれてから記入したことないなあと思ったからだ。「一読者」になりたかった。それから、送り先は大企業ではないので、メッセージは作り手にダイレクトに届くかもしれない。それは電子メールの「ダイレクトさ」よりもいい感じじゃないか、と思って投函をした。じっくりと読んだうえでの感想ではなく、パッと読んでガッと得たうれしさみたいなものを乱雑な字で(すいません)書き綴った。衝動か。そのあと、ちゃんとゆっくりと最後まで読んでいった。

 読者カードの紙面にも、ご本人にお会いしたときも、私から「歳が近くてうれしい。応援します」という言葉が出た。(あ、そう…)と不思議がらせたと思う。歳が近いからなにさ。むしろ読書や執筆ってそういうものを超えた繋がりですよね、と。ただ、個人的なブログという場に甘えて、解説というか、少し自分の話から始めたい。私は90年(平成2年)生まれで、ちょうど小学校に上がる時期と一般家庭にウィンドウズが普及する時期が重なった。私は小学4年生あたりから熱心にネットでテキストサイトを読んだりフラッシュ動画を観たりしていた。そしてそのうち自分も発信してみたいと思うようになる。おそらく私と年が近い人たちの一部は、「ネットで自分を表出すること」にとても敏感な意識を持っている。あなたは10代の初めから、たくさんの日記サービスやホームページ作成サービス、そしてSNSを渡り歩いてきたはずである。敏感な意識を持っているあなたは、後追いで「ネットで自分を表現すること」を覚えた同年代の人たちの日記や、文章や、あれこれを読んで、きっと唖然としたこともあったかもしれない。直裁に言ったらあまりにも傲慢になってしまうから多くは書けないが……、ときに、まるで荒地だったような印象が残っている。むきだしの言葉が絵文字とともに、岩のようにガラケーの荒い液晶の画面に転がっている。そしていつしか自分もその環境に順応したりしなかったり......(だってそれはそれで楽しいから)。ここで興味深いことがひとつある。私には歳の離れたきょうだいがいるのだが、彼らの卒業文集であったり修学旅行紀を読んでみると、文章力の基盤がまったく違う気がするのだな。なんだか、ちゃんと読める。理由は解明されないし、なにしろすべて私の主観ひとつで言っているだけだが、日本人の文章構成力はいま28-35歳くらいの人間を境目に、めちゃくちゃ落ちた、というか「違うもの」に変わってしまった気がする。大学で卒業論文を書いているときも、先生は「数年前から学生の文章が(悪い意味で)非常に変わった」と言っていた気がする。私自身も、子どものころから「きみの文章はまずいよ」と何度も言われ続けてきた(ので、苦労してきた[している])。大人になってからも、そこまで「まずいよ」とは言われなくても、「なんか変だよ」と言われることはけっこう頻繁にあって、世の中(この文脈で言えば上の世代の文章感(文章観))との剥離は感じている。やはり、搭載しているOSが旧世代から変わってしまったのかもしれない。この考え方は、高橋源一郎綿矢りさの文章を指した評言である。綿矢さんは84年生まれだからこの私の話の中では、私たちの世代は綿矢さんのOSからまた急激に変わってしまったということになる。私の目線で言えば彼女はむしろ「ちゃんと読める(ように書ける)」世代の最後なのだ。*1

 私がわかしょ文庫さんのことを好きなのは、この荒地をしっかりと通り抜けてきたような気がするからだ。*2 わかしょ文庫さんはその文章の妙味を友田とんさんに見出されて『うろん紀行』の連載を始めた。同じような世代的雰囲気を過ごしてきたかもしれないこの人は、いったいそれまでは、どこで文章の修行をしたのか、どんな「自己表出」の遍歴があるのか、ということが、その筆名も相まって、けっこう興味深く感じられたわけだった。さて、『うろん紀行』は「小説を読む物語」(帯文より)だ。小説……。私の周りがたまたまそうだっただけかもしれないけど、小説、誰も読まない。まるで荒地である。しかし、わかしょ文庫さんは小説を読み、どこかに移動し、掴み取ったものを自分のスタイルによって書くという、それで構成された本を上梓した。私は、「ここにちゃんとこういう人がいるんですよ」と、「なんであなたはそれをしないんですか」という気持ちになって、いま、これを書いているのかもしれない。しかし、「あなた」とは誰なのだろう。私か? または、うまく言えないが、そこにいなかった(いたかもしれない)同級生と会えたような気がした。

 読書カードに自分で書いたことでもうひとつ覚えているのが、「宝石箱みたいな本です」という言葉だ。私の先生が退職したときに本を作った(編集した)のだが、そのときその本を指して言ったことが耳に残っていた。先生は本の実質的な雰囲気や、自分にとってひとつの記念であるその本の思い入れを言語化したわけだが、私は本というのはなべて宝石箱のようだなと思ったりした。『うろん紀行』の丁寧で細やかな装丁、凛とした佇まいは、その中に色の異なるさまざまな物語を収めている。考えてみれば、その先生の本は「文学研究」の書物だが、「文学研究」も「小説を読む物語」の一種と言える。月並みな言い方だが、「読んで書いた物語」には元の物語とはまったく異なる光が備わる。ところで、さんたび登場する先生(の言葉)だが、先生は「本を出すということは選ばれし者のみが行える」といったことを確か言っていた気がする(もちろん先生はたくさん本を出している)。わかしょ文庫さんはしっかりと選ばれている。自分の未だ経験していない「自著を出す」という行為を夢想しながら、私は荒地から持ち帰ってきたかがやくものを、自分好みに並べ直しているわかしょ文庫さんをさらに夢想した。それは必ずしもるんるんとしたことではなく、指の皮膚が切れてしまうような出来事でもあるということは、この本の一編でも読んでみればわかる。

 

...で、その、具体的な内容にほとんど触れないままに長い文章になってしまったので、後編を近日中に書こうと思います。

 

*1 この段落に書いた内容はやはり自分にとってこの短文のなかでは収まらなかったテーマだったようで、2023年5月の文フリにおいて、平成生まれは「球を投げる力」も低かったという客観的事実(体育の時間にやらされる「体力テスト」のソフトボール投げのことである)も指摘しながら、同じような内容をフリーペーパーにして配布した。作家の大前粟生さん(92年生)が文學界2023年9月号の小特集にて、同イベントで販売した日記本への感想のみならずこのペーパーの内容に小さな言及をしており、感謝の念をいだく。

*2 この文章を読んだわかしょ文庫さんから後日「いや、自分はまだ荒地にいる」という応答があった。なにか墓穴を掘ってしまったような気がしたが、私も荒地にいる(いた)自分を見つめなければいけない、そもそも「荒地」ってなんでしょうね、という程度には考えこみ、この文章は削除されずにまだブログに残っている。だから、いやこの「だから」という順接の感覚は自分でもよくわからないが、わかしょ文庫さんのことが好きな理由もその後少しずつ変わっていっているとは思う。

 

 

わかしょ文庫『うろん紀行』の感想文「あなたの二階」(自信作です)

は、げんざいブログ非公開で、日記本『ロビン』に収録!

 

 

 

2022年の振り返り〜「ODD ZINE vol. 9」「ODD ZINE vol. 7」「ODD ZINE vol. 3」太田靖久『ののの』太田靖久・友田とん『ふたりのアフタースクール』

 2022年をふりかえるに、5月か6月ごろに原稿依頼を受けたことが大きかったと思う。新しい文芸誌が創刊されるということで、はじめは短い小説かエッセイでも、というトーンだったが、話を聞いているうちに分量や内容はある程度自由にやってもいいのかもしれないと判断した。私は短めの文章ではなく、一般的に文芸誌に載るような短編(原稿用紙80-120枚ほど)を書こうと考えた。とても貴重な機会に思えた。がしかし、締め切りは遠かったし、夏にやらなければいけないことがあまりにも多かったので、「私はいちおう小説家」という気持ちがふたたび芽生えつつも、芽生えただけで、育たなかった。うれしかったのは、今回の依頼は研究者としての自分も見てくれたうえでの依頼だった。研究をがんばれば小説につながるかもしれないし、小説をがんばれば研究につながるかもしれないというのは、ある意味理想的だ。二足のわらじをあまり肯定的に捉えない人はもちろん多い。私自身もどちらか脱いでしまおうと思うときはたくさんある。ただ今回は、二足のわらじで歩くことができた道だった。

 夏休みに入って、「私はいちおう小説家」という気持ちの芽に水を注いだきっかけは、小説家の太田靖久さんが企画した「ODD ZINE vol. 9」という展示だった。短い原稿を募り、それを神楽坂の「かもめブックス」の一画の壁面に並べて披露するという趣旨だった。ちなみに私は太田さんの名前はもちろん知っていた。彼は2010年にデビューしているが、これは私が上京した年と同じ。つまり、太田さんは、私が上京して「物書き」の将来を意識し始めた(「文芸誌」や「新人賞」という存在を知り始めた)ころに世に出た人だからだ。このあたり(10年代前半)に賞をとった人たちのラインナップは、私にとってとても懐かしい。私も誰かにとって懐かしい存在になっていると思う。当時は「太宰治賞」の選評(オンラインで掲載されていた)を読んだり、絲山秋子さんのホームページを読むのが好きだった。さて、「ODD ZINE」の存在は、なんとなく知っていた。しかし自分でも参加できる媒体とは思っていなかった。私は「文芸部」的な場所や「同人誌」の経験であったり「物書きの知り合い」さえ一切もたないまま年齢を積み重ねてしまったので、作家同士が集まってあれこれやることは、そもそも違う世界のことだと捉えていた。

 ご存知の通りツイッターはだいぶ前からフォローしていない人の発言もいろんなきっかけで流れるようになった。「ODD ZINEの締め切りが伸びたから私もがんばって書いてみよう」という誰かのツイートが流れてきて、少し興味がわいた。数ヶ月前に原稿依頼をもらっていたことが、興味のわいた理由だと思う。まとまった長さのある作品を本格的に書く前に、勘を取り戻すというか、ウォーミングアップになると思った。そして「私はまだここにいます」という信号を出したい気持ちがなかったわけではない。それから、ずっと前からその研究やSNSの発言を拝読している高村峰生さんという方がいる。高村さんが徳島新聞阿波しらさぎ文学賞に応募し、候補に残ったと報告していて、私はとても刺激を受けた。研究者が論文の採用や学会発表の参加を報告することはよくあることだが、このような発言はほとんど見られないから、とても目に残った。そしてその経験を明るく有意義に語られていて、やはり私もやりたいことを自由にやろうという気持ちが大きくなった。高村さんは、このたびの挑戦は千葉雅也さんが小説を書き始めたことに刺激を受けて、と書かれていた(と思う)。千葉さんもきっと研究と創作が同体になっている人だろうから、いまや日本有数の哲学者・作家のバイタリティが私のような末端の人間に降りてくるというのは、すごいことだなと感じる。傲慢にも言ってみるならば、これはネットワークだ。

 「ODD ZINE vol. 9」に応募するにあたって、私は「ODD ZINE vol. 7」を読んだ。物書きのメモを収録した内容である。私がいちばん面白いと感じたのは唯一批評家として寄稿している川口好美さんの見開きだった。ここには『ダブリン市民』の翻訳にかかわるメモとノートが写されている。特に訳語のびっしり書き込まれたテクストの原文の転写を興味深く読んだ。自分が研究のために書き込む行為と違う感じがしたからだ。そこにキャプション的に添えられた数行の文章も好きで、川口さんは「(引用をし、批評を始めると)首とかが痛くなる」と書いている。これは引用した対象を突き放し、批判し、ある意味で痛めつける経験が、自分に返ってくるということの身体的な報告だ。そもそも「引用」とは必ず「他人の本」から「自分の紙」という往還が必要で、ディスプレイ上であっても実際の机上であっても体のどこかに負担がかかる。たしかに「引用」は椅子にじっと座っていても必ず体を使うので、文字通りに指や首や肩が痛くなることがしばしばだ。とてもいい文章だと思った。

 9月上旬、「ODD ZINE vol. 9展」に足を運び、太田さんに「小学校で作文とか絵を飾ってもらったことを思い出します」と話した。失礼かな、とすぐに思ったが、もちろん悪い意味で言ったわけではない。むしろ、何かを作って人に見てもらうことの嬉しさの、原体験みたいだなと思った。再スタートにはうってつけの形式だっただろう。ただし、「かもめブックス」では太田さんとあれこれ話すことで手一杯となり、作品をじっくり読むことはできなかった。その後、コロナが流行ってから初めて実家に帰ることができ、その十日間ほどの期間で「ODD ZINE」の感想や「たんぽぽのこく」の初稿を書いた。

 「ODD ZINE vol. 9」の感想は太田さんのnoteに掲載してもらった(こちら)。「ネットで何かの感想を書く」「文芸作品の感想を書く」ことじたいが、とんとごぶさたというか、ほとんど初めてみたいなものだったので、自分のトーンが適切なのかわからなかった。掲載してもらってから読み返すとすぐに、なんか失礼だな、とか、もう少し相手がうなずけることを書かなければいけないのでは、と思った。たとえば笛宮ヱリ子さんの「私と、≪特≫と。」に対する感想はなんだかよく分からないことになっている。トリを飾る作品ということで、明らかにとくべつな雰囲気をもっているように感じ、少し気張ってしまったのだろう。簡潔に感想を言い直させてもらえるなら、この作品の冷たい感じが好きだ。ただ動物(展示のテーマ)は外気が冷たいときでも必ずどこかが温かくなるようにできている。その温かいところにも連れていってくれた。また、岸波龍さんの項において、氏の全作感想(こちらを参照しながら作品を読み、感想を書くことがとても楽しかったと書き漏れた。感想を書く理由は違う感想と出会うためだろう。

 その後、「ODD ZINE vol. 9展」で購入した太田さんの『ののの』(書肆汽水域)を読み、感想を書かせてもらった(こちら)。「虚数みたいな感覚がある」という感想を読み直して、少し恥ずかしくなった。こういう物の言い方は、理数系の心得がある人からすれば怒られたり、失笑されるたぐいのものではないかと思った。しかし私が数学的な(に)言い訳を記すことは不可能だから、正面突破したい。つまり、数学ではなく英語を専門にしているので、虚数は英語でなんて言うのか調べてみた。Imaginary numberと呼ぶそうだ。Imaginaryといえばimageだが、ふと考えてみればふしぎな言葉だ。頭の中のふんわりしたものもイメージだし、実際に触知できる図版もイメージと呼ぶ。簡単な辞書で調べてみても“Idea in mind” と “What you see” という定義が出る。だからなんだと、分析を連ねることはできないが、なんとなく腑に落ちることがある。太田さんは「あったことをなかったことにされるのが我慢ならないという気持ちで書いた」という発言を残している(こちら)。やはり、“What you see”は文章に溢れている。太田さんは小説の王道をつらぬいてデビューしたし、『ののの』は小説の王道なのではないかと、なんとなく腑に落ちている。少なくとも、「不思議な感触の作品」と言って済ませるのはもったいないということは確かだ。

 さいきん、太田さんは友田とんさんと『ふたりのアフタースクール』(双子のライオン堂出版部)を上梓した。自分の足で自分の文学を広め、きり拓く経験を対談形式で記した、きわめて重要な本である。ここで私の目に残ったのは「作家の水原涼さんに『小説で食えているか』という質問を受けたが僕の生活すべてが小説である」という太田さんの応答(正確なページを見つけたら編集します)だった。なぜなら私は『ODD ZINE vol. 3 作家になる前/作家になった後』も入手しており、このZINEのなかで特に目に残ったのは水原さんのこの質問だったからだ(作家同士が質問し合う記事がある)。ちなみに水原さんはここに収録されているエッセイで「他の文学賞に応募する作品を書いている」と記しており、非常に衝撃を受けた、フィクションかもしれないが。さて、紙面において「小説で食えているか」という問いはとても切り込んだ感じがあり、特集を引き締めていた。『アフタースクール』の話に戻すと、太田さんの言葉は或る境地や確かな手応えを示す説得力のあるものだった。とはいえいちおう水原さん側にも立ってみると、自分が水原さんだったらその応答に10割うなずくかは分からない。これは仕方ない。『アフタースクール』つまり放課後は、お互いの財布の事情が気になる時間でもある。私たちは「あれ、こいつどっから金が…」とか、「お前はいつも金欠だな…」とか思いながら放課後を過ごしていたものだ。この本でもお金の話がたまに出てきて、それを面白く読んだ。実は、もっとそれを読みたい。

 私も小説ではまったく食えていない。原稿料の一部で学費をスパッと払ったときはとても気持ちが良かったが、それも遥か昔の話だ。その後はあれこれ苦労し、今も苦労し、日々の仕事に心身を取られて研究や創作のことになかなか自分を浸せないでいる。とはいえ、今年は以上に書いてきた通り「私はいちおう小説家」という気持ちに水をあげることができた。新作「たんぽぽのこく」を掲載した文芸誌ケヤキブンガク』(こちらも無事に出版され、いい機会なので停止していたツイッターを再開した。新人賞をもらったときは実名でSNSをやって作品を宣伝するといったことはまったく考えなかった。当時からツイッターや同人誌活動・ZINE活動、ブログなどを実名で動いていたら、誰と出会い、誰と仲間になっていただろうということは少し考える。そういえばずっと昔からこの人のつぶやきを読んでるなあ、という人とFFになることは素直に嬉しい。ここまで読んでくれてありがとうございました。