何か正しく言えた方が(池谷和浩『フルトラッキング・プリンセサイザ』)

 私が賞をとってまもないころに、「これからは趣味で小説を書いていくんですか」と言われて私は腹が立った。むしろ賞をとったのならば一般的に言って創作が仕事になる可能性が大きくふくらむのだから、このせりふは文脈を説明しないとあべこべな言葉になってしまう、しかし私はその文脈を語ることはべつの文章の話題にとっておこうと思う。

 私は、「私は傷ついた」とは書かない、「傷」はその痛みや、痕や、傷をおおう瘡蓋が自分の世界の今にも影響を及ぼすものであって、言葉の正しさに基づいて言えば、あのときの自分の気持ちは「傷」ではないと判断してもいいと思えた。言葉に対して正しくありたいが、べつに、言葉に正しくあってもいいことが起きるわけではない。言葉は仕事や宗教のように「報われ」の果実をその幹に付けてはいないようである。

 

 ことばと新人賞を受賞した池谷和浩『フルトラッキング・プリンセサイザ』の中心人物である「うつヰ」は、仕事のために何かの会場に行って「部長」の黒いティーシャツを眺めている。部長が汗ばんでティーシャツの黒色が「また別の黒」に変わっていってうつヰは次のようなことを考えているそうだ。

 

色が変わったといっても黒がまた別の黒になったのであって、それを何と呼ぶことが出来るのかうつヰには分からなかった。実際の順番では色が変わっているから汗で濡れているのだろうと推察したのだから、色のことは色のことで何か正しく言えた方がいい。方がいい、というのは何だろう。(283)

 

 『フルトラッキング・プリンセサイザ』は全体を要約して言えば、この「方がいい、というのは何だろう」という感覚が持続している小説である。なんらかのIT関連の仕事をしているらしい「うつヰ」は「プリンセサイザ」という何かを(通じて)どうやらオンライン・ゲーム?のごとき仮想世界に行くことを習慣としている、私もこの記事を書きながらふと気が付いたが、作中では「プリンセサイザ」のことをうつヰにとっての「趣味」であるとは書いてなかったのではないだろうか。うつヰの日常、そしてプリンセサイザ。ストーリーらしいストーリーは少なくとも、書き手ではなく読み手にとっては乏しいのではないだろうかと思う。「もう少しこんなふうに盛り上がる方がいい」との指摘は選考会では出なかった。それは本作が丹念に読まれ評価された証明でもあるだろうし、この小説は「方がいい、というのは何だろう」という疑問を疑問のまま、あるいは疑問符も付けないままに作品の基底にしているからかもしれない。

 初読時はふと、「身体性」が主題となりうるだろうかと思った。ちなみに主題とは書き手ではなく読み手が見つけるものである。冒頭、うつヰはさまざまなオブジェクトを触る、考えの中で、より正確に言えば語りの中で。選考会でも指摘されている通り、うつヰ=うつヰの語りには、さまざまなこだわりや細部への日常的な注意や開いては閉じる考え事がひっきりなしに展開される。うつヰは「バスタオル」のことを考え始めて、それから、「アイフォン」や「靴」や鍵やドアノブや、「シャワー」を頭のなかで触っていく、そして、「そこまで考えたところで鉄の錆びた手すりを右手で掴んだ。あまりに熱いので驚いた。」(282) ぐるぐるした考えごとに支配された肉体に襲来してくる現実の感覚、という記述が小説の導入である。わりと伝統的で保守的だ。バーチャルリアリティを素材とした創作物の多くは、(バーチャルリアリティが「ぐるぐる」の延長であるとすれば)この「肉体に襲来してくる現実の感覚」が作品の核心を担っている印象がある(新しい技術は常に古い主題を求める)。とはいえ『フルトラッキング・プリンセサイザ』の関心はとくにそちらに向いているわけではない。そちらのほうが、なんだか、正しいように思うのだが、小説はそれを必要とはしていない。VRのことはVRのことで何か正しく言えた方がいい、方がいい、というのは何だろう、こういうことである。私たちはいつでも何か正しく言えた方がよく、そのためにさまざまな仕事が活躍し、求められる。「だが、小説家が担っている仕事とは『方がいい、というのは何だろう』ということを思考し、形にすることだ。」そのような、いかにもなことを、私は思わない。それは、小説を書いたり論じたりする自分を特別に思っていて、小説を書いたり論じたりすることが世界で一番偉いと思っているような人の言うことだ。そのような人は、さまざまな仕事、これは抽象的な「仕事」の意味で言っているが、ともあれ人々が仕事の中でいつも正しさと絡み合って組み合っていることが想像できていない。正直、私はプリンセサイザにおける「王女パート」が相対的には面白くてずっと読んでいたくて、一方、うつヰのぐるぐるした日常は目がすべるときもあった、しかし、たとえば、「有給」と「有休」も、「領収書」への異様な注目も、きっと作品の完成には欠かせないものなのだろうと、好意的に捉えたい気持ちもある。その理由は、うつヰが小説家ではないからで、さらには、少なくともこの小説が草稿であった段階では、池谷が狭義の意味では小説家ではなかったからである。

 あらすじをもう一度書こう。「なんらかのIT関連の仕事をしているらしい「うつヰ」は「プリンセサイザ」という何かを(通じて)どうやらオンライン・ゲーム?のごとき仮想世界に行くことを習慣としている。」 私の一文には「なんらか」「何か」「どうやら」「?」という語が含まれていて、作品の細部をぼやかしていることがわかる。多くは私の怠惰によるものだが、どうやら作者によっても意図的な説明不足が仕組まれているらしいという選考会の指摘は挙げておきたい。プリンセサイザの詳細、人物たちの性、仕事、人間関係、過去、等々。小説のことは小説のことで何か正しく言えた方がいい。方がいい、というのは何だろう。私の見るところ選考会で語られていたことはそういうことだ。滝口悠生が後半の王女たちが歌う場面(次に論じる)を良いと言っていて、私もそのパラグラフに対しておおいに賛成したのだが、うつヰにとってプリンセサイザが、滝口が言うように、「大切」で「切実」で「大事」なのかどうかは実は作中には一言も書いていない。これはとても面白いことだと思う。私は、うつヰにとってプリンセサイザは代替可能なものであるという説を言いたいわけではない。小説をめぐる会話がなされていると思ったのだ。滝口は「小説のことは小説のことで何か正しく言えた方がいい」と考えたのだろう、そこにある種の「仕事」が込められている。

 

 さまざまな「王女」が出てくるパートが面白い、ということは先に述べたが、そこに着目して読むにあたってひとつ気づいたのは、うつヰがプリンセサイザを使用すると、その場面でしか使われないさまざまな言葉があって、それらの言葉に会えるのがうれしく、好きだからなのかもしれない。たとえば、「おしゃべり」という言葉は、うつヰが、そして池谷にとっても、きわめて大切にしている単語なのではないか。うつヰがプリンセサイザで楽しむ体験を、私たちは言葉で経験するということである。その言葉の中でも際立つのが「集まる」という言葉である。プリンセサイザの中で(を通じて)王女たちが、集まっている。集まるということは、代名詞が複数になるということである。仔細に検討していないが、もしかすると「人々」や「皆」という言葉が出てくるのはプリンセサイザ使用時だけではないか。

 282ページから始まる本作においてうつヰが最初にプリンセサイザを使用するのは286ページ下段で、イベント会場に仕事として「集合」するところから話は始まるのだが、それとは少し種類が異なる「集合」がプリンセサイザに先立ってこのように書かれている。仕事から帰る場面。

 

 上がると広場になっていて、円になって踊っている人たちがいた。その先にある劇場の屋根の下を抜けていくと少し涼しいので、そうした。(286)

 

 (それを悪いとは思わないが)この小説には語順や助詞の使い方や句読点、その他の要素に規定された文のリズムにやや特徴的なところがあり、上に引いた箇所も少しだけその傾向を帯びているかなと思う。というのは、「そうした」の内容は「屋根の下を抜けていく」ことだが、うつヰが「そうした」のは「円になって踊っている」ことのようにも誤読できるように思ったからである。だとすると、この点景は書き手がただ書きたくて書いただけなのではなく、次に挙げるようなプリンセサイザにおける寄り合いの予兆のような効果を帯びてくる。

 

人々一緒だった。降りて人々と月明かりの下を歩き、区画を三つぶん進んだ。廟のようになっている、青白くほのかに光る墓石の周りにその日は人々が集まっておしゃべりをしていた。(286)

 

各駅の王女たちで集まると、そこに整列し、歌うことがあるのだよと武蔵野台の王女はやさしく教えてくれた。(292)

 

みんなくつろいで、王女を囲んで思い思いのおしゃべりをしていた。(292)

 

人々がたくさん来ますか。ええ、人々で満ちて、境までいつも賑やかになるんだよ。(295)

 

うつヰは手を振って輪に近づき、少しのあいだ見学していた。(298)

 

プリンセサイザでクラスターに入った。ワールドは国領駅、広場で王女に奉納するアバターモデリングを競い合う大会に参加した。(303)

 

皆のアバターが出来上がると国領駅の王女が現れて、ひとつずつためすがめつして、最後にうつヰの作ったものの前に戻ってきた。(303)

 

もうすぐ、殿下と呼ばれるようになるはずだ。王女だから殿下。その日には、各駅の王女が集まって、歌を歌うことになっている。(311)

 

蘆花公園の王女が現れたと分かると一斉に湧いて、お茶会が始まった。(321)

 

レビュアーを開いてデモを見せると、周りに王女たちと人々が集まってきた。(321)

 

王女の呼びかけでバスが一斉に集まってきた。その一台に皆で乗り込んで、上北沢とうつヰの封地の境に来ると、また降りてゲートをくぐった。(326)

 

もしも作品を読んでいない人がこの記事を読んでいたとしても、以上に引いてきた箇所を眺めれば、プリンセサイザ(princess+-ize+er = princesizer [王女にさせるもの])によって、王女たちがわいわいわちゃわちゃしていることが把握できるだろう。そして、次に引用するのが作品のひとつのささやかなクライマックスであり、私が作中でもっともよいと思えた一節である。

 

歌いましょう、とうつヰは呼びかけた。膝から力が抜けてしまっていて、腹に力が入らなくて、大きな声が出ないような気がした。それでも一声出してみると、構内に響いていくのが感じられた。いつの間にか隣の王女と手をつないでいた。王女たちは次々に手をつないだ。うつヰの駅の隣から高尾山の方へ下っていく順に、上北沢、八峰山、蘆花公園、千歳烏山、仙川、つつじヶ丘、柴崎、国領、布田、調布、西調布、飛田給、武蔵野台、多摩霊園、とつないでいって、この日のために練習しておいた王の路線の歌をうたった。(326)

 

 オンラインゲームという性質上、その空間の中で、ある種の集団性や行事感というのが生じてくるというのは言ってみれば当たり前のことだが、それを作中で強調しないからこそ読み手の目に残ってくることがある。うつヰは現実世界では友達がいなかったりストレスフルな日常を過ごしているけど、仮想現実ではそうではない、というような、読み手の心を惹くような構成や設定はすべて、はなから作品の中で採用されておらず、かといって現実と仮想現実がシームレスにつながって流れていく新感覚小説だ、というような分かりやすいセールスポイントを湛えているわけでもない。ただ王女たちがなにやら集まっている。そこに「固有のものを読んだ」という読感が残るのだと思う。現実よりVRの方がいい、またはその逆、そういう話は商品にはなるだろうが作品にはならない。方がいい、とは何だろう、そこまでを含めて作品になる。うつヰはべつにそれを深い苦悩や解けない疑問とは思っていなくて、だからうつヰを読む私たちにとっても苦悩や疑問ではない。しかし暮らしの中に「それ」は残る。言ってみればこれはVRの小説ではなく生活の小説だ、選考委員のひとりが本作をリアリズムと言ったことを思い出してみれば、リアリズムとは生活のことである。記事の冒頭で引用した文を変型させて言ってみよう。「生活のことは生活のことで何か正しく言えた方がいい。方がいい、というのは何だろう。」この一文は、仕事や、「集まり」や、肉欲(がときおり作中に書き込まれる点がチャーミングである)の中で生きている人々が大切に持っている<文型>、表現を替えれば、エンジンやデバイスのようなもの、のことである。『フルトラッキング・プリンセサイザ』におけるうつヰのトランクやバックパックの中にひそかに入っているものでもある。