大合唱

 なんでおれはこんなによく晴れた土曜日に向井秀徳みたいな渋い顔のがきを隣に乗せてドライブしているんだろう。こいつはつむらという名前らしく姪の同級生だ。かわいい姪の頼みならおれは、姪の同級生という以外になにも縁のない中学生男子のこころを開くために一肌脱がなければいけないのか。こころを開くってなに? こいつが開かなきゃいけないのは横隔膜、喉、そして口、学校では合唱コンクールが控えているんだけどつむらがちっとも歌わないからクラスメイトがみんな迷惑しているそうだ、音痴なやつがいるのも迷惑だけど、ほかの子たちががんばって歌っているときに口をぎゅっと結んだやつがいたら悪目立ちするだろう、いくら耳に届く合唱の響きがよくても目で見た印象もふくめて評価されるのだろうからこいつがいたら銅賞もとれないだろう、おれだって合唱コンクールの思い出くらいある、やる気のある女の子がクラス全員で歌わなきゃ歌が完成しないんだ、とか息巻いているんだろうなあ、そうなんだろ、とか信号で停まっているときにつむらへ話しかけてみるけど無愛想なやつで少しも反応しない。おれは姪からつむらの御守りを任されたときに幼稚園の二学期が始まった日を思い出していた、なんだかどうしようもなく幼稚園に行きたくなくてぐずついていたらじいちゃんが車に乗せてデパートに連れていってくれていつも誕生日かクリスマスのときにしか買ってもらえないような大きなおもちゃをくれて、そのあと大きな公園や市民プールにも連れ回してもらって、次の日おれはふつう幼稚園に行ったんだった。なんでおれが幼稚園に行こうと思ったのかよくわからないけど、こいつもドライブしたら次の日からよくわからないけど真面目に歌の練習をするのかもしれない。たしかにおれは若いころにバンドを組んでいてボーカルをしていたけど合唱コンクールの練習で口を開かない少年に教えられることなんかなにもないよ、あてもなく街をぐるぐるすることにも退屈してカラオケに連れていってメロンソーダを飲ませたあとに、つむらがおもむろにマイクを握って流行りの歌を、声変わりするかしないかの古い木琴みたいな美しい声で歌った、こういうところでなら歌えるんじゃないか、しかしその帰りに事故っておれは死んだ。街をぐるぐるするのが悪いのだろうな、とまたハンドルを握っていたおれは山奥に車を走らせて山峡に流れる細い川がにわかにふくらみ深くなる、そのまわりにいろんな花が小さい風にゆれている場所につむらを連れていった、きっと大事なことは静かな思い、おれはここが自分にとってとくべつな場所であることを語った、塾のテストの成績が悪くクラスが下がる通知が届いて、だいすきな母さんは再婚相手の婚約者を実家に連れてくるしギターの弦はいつまでも上手に張れねえ、そんなゆうべにおれは山に駆け込んであてもなく川つたいに歩いていたらここに辿り着いてやわらかい風がほほをなでたのだ、川の流れをながめているうちにおれのもやもやなんかちっぽけだなって思ったわけよ、上を見上げると峰の向こうにでっかい夕日が隠れようとしていてさ、おれ、家に帰らなきゃって思った、そしたら、かがんで水辺に向井秀徳みたいな面を浮かばせていたつむらがきれいな水で手を洗ってその指先で、自分のふくらんでいない首の真ん中をさわった、聞いた覚えのあるような童謡をまるで川の向こう側から聞こえてくるような声で歌った、おれは沁みたね、しかしその帰りに事故っておれは死んだ。どこかに車を停めてしまうから悪いんだな、とおれはパワーウィンドを下げてぬるい風を浴びながら思う、ついでに思ったことは自分としてはけっこうなひらめきだった、そうか、お前は合唱をしているときに他人の声を聞いているんだな、合唱ってきっと男子の列と女子の列で別れて歌うもんだろ、お前は野郎に囲まれているから好きなあの子の歌声をたくさんの束ねられてかさの増した合唱から聞き取ることがむずかしい、自分の口を開かずに耳をすませて壁みたいに迫ってくる声のなかから好きなあの子の歌声を聞き取るんだ、てめえが歌っていたら自分の声だけが頭の中でひびいて埒が明かねえ、お前の好きな子はきっとお前と同じように人前で歌うのが苦手で、しかしクラスの同調圧力でクラス一丸となってすばらしい合唱をつくりあげるためにいやいや声を出しているのだ、だからあの子の声は死にかけのすずむしのようにかぼそい、あの子は自分の声を他人に聞かれるのがはずかしく何より嫌なのだ、お前はそれを分かってあの子の声を聞き取ろうとする、こんなに堂々とあの子のかぼそくも伸びやかな声を耳のなかで愉しめる機会はほかにないからだ、これは密かな悦びだ、ふと気がついたときにその罪悪感がお前の胸に去来する、その冷たく固まった悲しみはお前の口腔をさらにこわばらせるのだろう、するとあの子の歌声を懸命に聞き取ろうとしていたお前の耳殻はクラス全体の合唱をもろに受け止めてしまう、大合唱を、お前にはもはやあの子の声を聞き取ることはできない、そしてお前は、などと話していると気がつけばつむらは、白く透明で粘り気があるような涙をつつりと流していた、ああおれも泣きそうだ、そしてつむらは強くやさしく、出来上がったばかりの硬い肩や腕で誰かを不器用に抱きしめるようなたくましい歌声を射出した、ああこの曲おれが中学生のころも課題曲だったな、そのあとおれは事故って死んだ。たぶんちょっとひねりすぎたのだと思っておれはシフトレバーをひねった、視点を変えてみるのはどうだろうか、きっとお前は指揮者の子が好きなんじゃないだろうか、指揮者は歌っているクラスメイト全員の様子をたしかめながら合唱のぜんたいをコントロールする、しかしお前は指揮者に向かって自分の肩の揺れや唇の開閉を晒したくはない、それはお前にとってきっと肉球と爪のはっきりと分離していないまま他人に慣れてしまった家禽と同じ形になっている下半身やまだ若く幼い薄い肌色の鎖骨のういたうすみどりの上半身を晒すほどに羞恥がともなうのだろう、指揮者は自分だけ見ているわけではないということはお前はよおくわかっている、しかし唇の開閉によってお前のこれまで枕の裏側に隠してきたようなどんな化学にもいまだ洗われていない汚い、そして心地よく吐き気をもよおす透明なペースト状のごまかしが指揮者に伝わってしまいそうでこわいのだ、それはおれも同じさ、じつはおれもそうだったんだ、おれの脇の下をさわってほしい、ここに折り畳まれた熱と液体にお前とおれの歴史が、激しく突き上げる血のかたちが痛めつけ、痛めつけられてきたような呻きが大合唱になっておれとお前が憎み続けてきた、とぼけた顔の兵士たちの白く広い、懐かしい愛のように産毛のはえた太腿を世界中のどんな母親でも元にもどせないほどにびしゃびしゃに濡らすだろう、おれは少年のまるい眼鏡を誰からも見捨てられ嫌われてしまった老人のふけのような匂いにまみれたその顔面から外し丁寧にフレームからレンズまでをやわらかい布で拭きそれをダッシュボードに置いて両手はこのときハンドルから離れていたのにアクセルは踏みっぱなしだったものだからおれは叙事詩のようになった少年の青い顔をうっとりと見つめながらおれが誰よりも幼かったころにじいさんに連れていってもらったデパートに車を激突させて死んだ。