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ここに @itaws_ が小説や日記を公開している。

それは、作家 / アメリカ文学研究者、板垣真任(Itagaki Masato)のアカウントです。

 

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【自主制作本】

短編小説集『きらきら大切商店街』(23年5月)

短編小説集『ちっとも懐かしくない町』(23年11月)

エッセイ・日記集 『定本 ロビン』(25年9月) 

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【商業雑誌掲載作品】

トレイス(文學界新人賞・『文學界』2014年12月号)

 徘徊する祖父の跡を追う仕事を家族に任された浪人生の話

声がわり(『文學界』2015年6月号)

 合唱コンクールのために中学生の男の子2人が近所の音楽教室のちょっと不思議な先生に歌を習う。

すら(『文學界』2016年2月号)

 一人暮らしをしている「僕」のもとに姉と姪の「すら」が転がりこんできた。

大声の歴史(『文學界』2017年11月号)

たんぽぽのこく(『ケヤキブンガク』創刊号 2022年12月)

 『ケヤキブンガク』は現在年刊ペースで出版されている、文学、人文学、音楽などを探究する文芸誌です。武蔵野、ことに吉祥寺周辺の書き手、あるいは文学研究を本業とする書き手が毎号集まっています。HP 

おとうsea (『文學界』2025年11月号)

 

 

【ZINE・同人誌等掲載作品】

「館の犬」(22年9月 ODD ZINE. Vol. 9 [太田靖久主宰]) 

「ブレーメン」(23年 7月 CALL Magazine. Vol. 29 [紅坂紫主宰])

「大合唱」(24年5月 『庄野潤三「五人の男」オマージュアンソロジー 任意の五 [オカワダアキナ主宰])

「バゲッジ・クレーム」(24年11月 『閑窓vol. 7 遥空を仰いで』 [閑窓社])「新同人雑誌評」『三田文学』2025年夏・秋合併号 にて取り上げられました

「なんにもわからない」(26年5月『アンソロジー 存在しない祝日』[瀬戸千歳主宰])

 

     

 

研究者としての略歴

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Twitterやブログを始めたころの日記

2022年の振り返り〜「ODD ZINE vol. 9」「ODD ZINE vol. 7」「ODD ZINE vol. 3」太田靖久『ののの』太田靖久・友田とん『ふたりのアフタースクール』

 

    

        <ここまで読んでくれてありがとうございました! ごろん

だいたいおんなじ毎日

 

 習字教室で裕二が私を気にしていることはわかっていた。耳や鼻から毛のはみ出た書道の先生は、子供の目からすると自分たちの祖父母より年寄りに見えた、私たちは習字が書けると朱をしてもらいに先生に持っていくが、それを待っているあいだ先生はよく眠っていた、席を立ってしばらく戻らない時間もいつもあった。そうなると私はピアノ教室の布製の手さげからポータブルのMDプレーヤーをこっそり出して、正座している両膝の間に挟み、イヤホンを耳に挿した。今までレッスンしてきた曲や単に私の好きな曲、そして数時間後に練習することになる課題曲を通して聴いたり数分ずつ聴いたりした。周りの子たちの私語をシャットアウトできるし、なんとなくの予習にもなった。私がイヤホンをつけると裕二が自分の方をちらっと見る。皮膚で彼の視線を聞いているようで少し居心地が悪いのだった。

 土曜に習字教室は昼過ぎから開いていて、午後三時くらいには終えることができる。そのあと夕方過ぎまでピアノ教室で過ごす。二種類のカバンを持ち歩くことは恥ずかしかったけど、土曜の子供はみな忙しい。そのとき五年生だった裕二は、少年野球チームの、少しぶかぶかのユニフォームを着てよく習字教室にやってきた。もちろんユニフォームはまだ泥だらけではない、彼も三時過ぎから練習があった。今にも弾け出しそうな腕や足がざぶとんの中に収まっていて、その姿が教室の中でなんとなく可愛らしく微笑ましいものとして捉えられていた。たまに私服でやってくる週もあったが、そのときは裕二の中にある「男の子」がまっすぐこちらに向かってくるようで少し身構えた、音楽を聴く私を見る裕二が気になるのもそんなときだった。

 その日教室は混んでいて、私は裕二の隣に座ることになった。奥にいる先生がうとうとし始めると、私は習字かばんから墨汁を出そうとして、無意識にピアノ教室の手さげをさわっていた。裕二が私の手を見ていることがわかって、私は裕二をちらっと見た。

 裕二は、いつも持ってきているよね、と言った。私はてきとうに、君も持っているの? と訊いた。彼は首を横に振った、私は「家にもないの?」と訊き、音楽には興味ないんだよな、と聞こえた。私は裕二にドビュッシーを聴かせてみた。彼はイヤホンを耳につけることすら初めてであるような手つきだった。再生ボタンを押すと、彼の小さく赤い耳から海の太陽の粒がこぼれているようだった。不思議。こんな音、聴いたことがない。音楽は、発表会を行う市民会館や音楽教室、そして耳のうちにだけはっきりと存在するわけじゃないということがわかった。

  あのころはイヤホンに線がついていたし、イヤホンから音が漏れることもふつうだったと思う。

 だとすると私は静かな習字教室で毎週クラシックのピアノ曲を音漏れさせていたということになるが、親の言いつけを守っていつも控えめな音量に設定していたし、私のとても近くにいる人にしかそれは届かなかったはずだ。

 それは二分間くらいのことだったろうか、私は彼の耳からイヤホンをそっと抜いた、裕二はそのせつなに自分の耳に入ってきたものに対していいとも悪いとも言わず、「これ、ドビュッシー」という私のつぶやきに対して、教室に響くほど大きく笑った。ほかの生徒が驚き、口の端によだれを溜めていた先生が起きる。その外国人の名前を面白く感じたらしい。

 習字教室に通う男子のあいだでドビュッシイナというあだ名が私につけられてしまった。

 ガキだと思った。

 

 人間はいろんなものを射出しながら生きているのだなあ、という考えは、もともと、ぼんやりと私の中にあった。自分の体だって当たり前にそうだし、弟が生まれたとき、木の芽みたいなちんちんからおしっこがぴゅーっと出たり、母の黒いおっぱいから乳がぴゅーっと出たりするところを何度か見た、私のとても近くにいる人たちの射出だった。

 七百万年くらいの歴史があるらしい私たち人間は、むしろ、いろんなものを射出せずにはふつうに生きていけないのだなあ、という考えに至るころには、私はもう自分のとても近くにいる人たちとだけ暮らす歳ではなく、中学校という場所では、他人との近さと遠さを調節する練習をいつもすることになった、もうピアノの練習はしなくなっていた、書道もスイミングスクールも小学校までで終わり。それからは土曜の夕方だけではなく毎日、柔道の練習をした、過酷だった。

 柔剣道場は、音楽教室とは異質な音であふれている。練習を律するタイマーのビーッという音、体が畳に投げ落とされる音、ぶつかり合う竹刀や防具の音。剣道というスポーツについて中学生になるまでなにも知らなかったけど、隣で練習しているのが目や耳に入って、かならず「ギャーッ」とか「ウォーッ」「ヤアーッ」と叫ばなければいけないらしいことがわかった。教室では物腰柔らかで闘争心のかけらも感じさせないマイちゃんも、夕方になればずっと絶叫している。射出だ。剣道部の人たちとは意味は違うとも、思えば、世間には言葉をいつでも射出せずにはいられない人ばかりだということに私は気づいていく。いや、見方を変えれば、そもそも人間はみな、言葉や液体を射出せずにはふつうに生きていけないのかもしれず、でも、「ふつう」ってなに? ということを深く考えられるほどそのころの私は大人ではなく、ただ、ふつうに生きていくことの根本的な恥ずかしさやむずかしさが、私の、県大会準優勝を果たすほどの身体の内側にぼんやり灯り始めていた。

 その日の部活の終わりには、黙想、礼、のあとに顧問の先生が一年生に、もっと声を出せと指導した。夏が過ぎ、三年生が引退したので、一年生たちはそろそろ部の一員として試合に出ること、そして勝つことを意識しなければならない。いつまでも初心者気分の「かわいい一年生」ではダメだ、というようなことを先生は言った。柔道は剣道と違って声出しは必要ないが、試合が始まったときや、「待て」から仕切り直すときに「や!」「は!」「らーっ!」と短く発声することはある。先生はそれをしろと一年生に言っているのだ。まず気持ちで負けるなということ。柔道は勢いと冷静さの足し引きのスポーツだ。「いいな?」と先生が言ったときの一年生連中の反応が悪く、先生はちょっとイラついたように「恥ずかしがるなよ!」と怒鳴った。びくびくしている後輩たちの中に裕二もいた。いちばん痩せっぽちのちびで「かわいい一年生」の筆頭だった。

 私は柔道部で毎日裕二をしごいていた。私も中学校に入学したときはただの初心者だったのだが、ずいぶん性に合ったみたいで気づくと上級生の男子も投げ飛ばせるようになっていた。顧問の先生は日頃から一年生の男子たちに、椎名に鍛えてもらえ、と促している。男子の上級生たちは、強いやつは強い男同士で乱取り(自由に立ち技を掛け合う練習)や寝技練習をやりたいようだし(おそらくその集団の九割に私は勝てる)、弱いやつは私の練習相手が下級生になると安心するようだ。実際私の投げは上手いので、一年生は受け身の仕方だけはばっちりだ。私が強くなりすぎたせいか、女子の部員にはさいきん練習中に限っては敬遠されている。

 男の子にも女の子にもいろんな部員がいた。柔道とはスポーツと同時に格闘や武道であって、表面的には短足、ガニ股、筋肉、いかついとか武骨だというイメージがあるけど、少なくとも中学校の柔道部というものは、どのスポーツにもあまり関心がないけど文化的なこともできず、ただ運動はしておかないと、と思う生徒たちの受け皿になっていることも多いはずだ。私の部活には、でぶもいれば痩せもいて、熊、豚、猪、あるいは狼もいれば、美人にハンサムボーイもたくさんいた。その、いろんな男の子や女の子と毎夕とても近くまでぶつかり合う、体そのものを握ったり触られたりする必要性があまりないことが面白く感じる、柔道は柔道着を掴んで引っ張るときの物理学で成り立っているのだ。それでも他人がこんなにも近くにいる。

 あくる日も寝技の時間、裕二は苦々しい顔で私に「お願いします」と言いにくる、柔道着の分厚い繊維にそれぞれの汗が染み込んだ匂い、四肢を抑え込まれて漏れ出る情けない吐息、変声期直後の頼りないふんばり、裕二と私は、ある時期に同じ習字教室に通っていた昔を忘れて、まるで柔道部で初めて出会ったかのように接していた。たしかに小学六年生と中学二年生は何もかもが別人だし、小学五年生と中学一年生も別人なのだ。私はドビュッシイナではない。月日を経るほどあれは下品なあだ名だったなと思うようになった。裕二がそれを口にしたら、絞め落とそうと思う。

 九月の終わり、裕二が畳の上で大の字になって口から泡をふいていた。

 ほかの部員たちが(ちょっと面白がりながら)騒いでいる。

「裕ちゃん、誰と寝技やったんだ?!」

「椎名だよ!」

 裕二は気絶から戻ると逃げるように柔道場を出ていった、「一礼」も欠かすほどだ。

 私は柔道場の隅でむすっとしながらテーピングを巻いていた。その日の練習前、男子更衣室から禁断の言葉が聞こえた。寝技の時間、私は裕二を真っ先に呼んだ。絞め技がきれいに決まった。柔道は中学競技になると絞め技が許可されて、高校では関節技が許可される。彼に畳を叩く余裕さえ与えなかった。絞め技は柔道着の物理学における真髄だと思う。

 裕二の寝ていた畳が濡れている。裕二が口から泡をふいただけではなく失禁していたことに気づくと、部員たちは大騒ぎになった。顧問の先生が駆けつけて、誰か畳マットを拭いてやれと言った。部長が一年生の後輩たちに指示をしたが、彼らは嫌がった。部長が私をにらむ。私はにらみ返した。けっきょく顧問の先生がバケツとタオルを持ってきてそこを手早に拭いた。裕二は柔道場に戻らず、その畳マットは残りの練習中みなから避けられた。練習が終わって黙想、礼、のあと先生は「お前らにはがっかりだ」と嘆いた、上級生の誰かが手加減なく初心者の一年生を絞め落としたこと自体は不問になったようだ。一年生たちが箒を持ってきて柔道場の掃除を始める。おしっこマットはやはり避けられた。

 更衣室の中にある小さな机で学校の宿題を途中までやってしまうのが私の習慣になっていて、気づくと私以外の部員は男子も女子もみな柔道場から出ていた。入り口に体操着の裕二が見えた。私がにらみをきかすと彼の唇はびくりと動いたようだった。彼の足元にはタオルと洗剤があった。

 裕二は言った。

「保健室の先生に事情を言って、下着と清掃用具を借りたんです」

「よかったね、保健室の先生が優しくて」

「椎名先輩も優しい人だと思ってたんですけど、なんかやばかったです、へへ」

「上手に首に入りすぎた、わりーな」

 裕二が黙ってしまったので、私はふと、「でも気持ちよかったでしょ?」と言った。きれいに「おちる」ときは苦しくなく、むしろスッと意識が引いていくのが気持ちいいものだと、よく言われていた。私は「おちた」ことがない。柔道が強いからだ。

 裕二は、はにかんで「わかんねえっす」と言った。

 ふつうに生きていれば柔道や宿題のほかにもやっていくことになるらしい営みの中に、首を絞めながらあれやこれやを射出したりされたりするスタイルもあるということを私が知ったのはもちろん、少しあとのことだが、それがとても気持ちいいとしても、暴力がないと射出できない人間の在り方を、ふびんに思ったりもした。柔道着の物理学の枠外にある絞め技は、暴力なのではないだろうか。でも、それが当人の愛の物理学の真髄なのだと言われると、困ってしまう。私は七百万年の履歴を数える。愛は、とても近くにいる人から受け取るものだ。

 

 私は裕二が畳マットを拭くのを眺めていた。顧問の先生が一通りきれいにしたはずだが、自分で改めて掃除しなければならないと思ったらしい。終わりかけの夕陽が柔道場にひたっている。

 わずかな罪悪感が私をそこに座らせていた。

 私はひまで、そばにある通学かばんから携帯電話を取り出したくなる。しかし、そのようなときに限って剣道部の顧問などが立ち寄って、叱られてしまう予感もある。このときの手のひっそりした動きに私は、習字教室に持ち寄っていたMDプレーヤーのことを思い出す。すると、裕二もこんなことを言う。

「椎名先輩って、荒町の習字教室に通ってましたよね」

「うん。山岡もいたっけ?」わざとしらばくれる。

「はい、一年間だけだけど……」

「そう、覚えてない」

 そこから私たちは少し会話をした。私は「あのころ不本意なあだ名があって、それがなぜか今日の部活前に男子の更衣室から聞こえてきた」と、さも貴様に黒い歴史を掘り返されたとでも言うような恨みがましい語調でつぶやいた。「それはお前の声である、だから制裁を下したのだ」とまでは言葉にせずにいた。すると、私の本当に覚えていなかったのは、同じく柔道部の一年生男子である村田もその習字教室にいたということだ。更衣室で村田が、私のあだ名をふと思い出したように叫んだらしい、私は男の子の声をまったく聞き分けられていない自分に気づいた。

 私はなぜ村田の口からあのあだ名が射出されたのか、裕二を問い詰めた。

 中腰になっていた裕二は小さい尻をむずむずさせてはぐらかした、そうか、「射出」に関する話をしていたのか。

 貴様らは、いつもそればかりである。

 恥ずかしくないのか! という口の先まで出かかった言葉を呑みこんで、「恥ずかしくなかった?」と裕二に訊いた、それは、言葉は同じでも意味が違った。きっと単に射出されるだけではなくちゃんとした重みと思いを乗せた言葉だ。

「おちたことがですか」

「うん」しかも泡ふいて失禁したし。

「恥ずかしいです」

「ごめんね」

「いいっす、おれが弱いだけです」

 あ、そう。それなら、という気持ちで、私はその頬をつねりたくなる。

「これより恥ずかしいことがあるのかな?」

 うーんどうだろう、と裕二が呟いて、あ、敬語じゃなくなった、と私は思った。

「試合に負けたら恥ずかしいです」

「じゃあ私は恥知らずだね」

「椎名先輩はマジで強いっすからね」

 負けたから恥ずかしくなる、なんて、ずっと単純な種類の恥ずかしさだと思うな。私たちこれから、ただ生きているだけでたまらなく恥ずかしくなるっていう瞬間もあるんじゃないかな。……それはきっと、単に射出されるだけではなくちゃんとした重みと思いを乗せた言葉のつもりで、それは、夕方午後七時十分前に誰もいない柔道場で、私からあらゆる意味でとても遠い存在であるちんちくりんの男の子を前にしたときにだけ、私の体に許されるような表現とトーンだった。自分の考えを言葉にするのは、恥ずかしいのだ。そういや、七百万年前から思ってたんだけど、ぶっちゃけ言葉を使う生き物としてやっていくこと自体が恥ずかしいでしょ。だから柔道やピアノが生まれた。

 裕二の返答はと言えば、「椎名先輩は強いから、初心者の気持ちなんてわからないんだ!」と柔道場を出ていってしまった。違うそうじゃない、スポ根がしたいわけではないのだ。なんかとてつもなく、腹が立って、そのあと鼻柱の奥がぎゅっとなる。ただそこにいるだけで、何かが垂れてきちゃって、たまらなく恥ずかしくなるっていう在り方を言葉にしたかっただけ。ほらちょっと目から水が垂れてきて、こんな自分がほんとうに恥ずかしい。

 

 村田が畳の上で大の字になって口から泡をふいていた。

 ほかの部員たちは、前の日にも起こったことであるゆえ、落ち着いていた。

「村田、誰と寝技やったんだ?」

「椎名だろ」

 私は柔道場の隅でぼんやりとテーピングを巻いていた。昨日、裕二から聴取したことに想いを巡らせていた。一年生の男子たちは「射出」にまつわる話をしていて、それが私のあだ名につながるということは、もしかすると連中の誰かが私を手段として射出をなしたのかもしれない、それを告白したとき、当人をなじる言葉として、村田の頭にあの言葉が連想された……と。

 不愉快だが、耐えていかなければいけないことなのか、言葉によって異議申し立てできる案件であるのか、困惑した。とりあえず休憩が終わったあとの乱取りで、一年生の男子たちを徹底的に投げ飛ばした。途中で半べそになっていたやつもいた。恥ずかしくないのか? 自分があまりにも暴力的にも思えた。が、柔道着の物理学の枠内にある行為は暴力ではない。

 練習が終わり、黙想の時間、私はやっぱり昨日のほうが上手く絞め落とせた、と考えた。村田に聞きたかったことを、代わりに、帰り道に見かけた裕二に聞いた。ねえ、気持ちよかった? それ、昨日も聞きましたよ、と言われて、ナイフみたいな恥ずかしさが肩に降りた。文脈を知らない生徒がそこへ通りかかって耳にしていたら私は、単なる変態だし、裕二にとって私は、どんな上級生に写っているというのか。

 そしてさらに、その質問だけをして彼を通り過ぎようと思っていたが、よく考えたらその行為はかなり変な人のそれであり、「昨日も聞かれた」と言われて私は輪をかけてばつが悪く、だからといって理由もないのに後輩の男の子と帰り道をふたり並んで歩くのも意味が不明だった。

 裕二もそうだろうと顔を真っ赤にして私は思ったが、意外と平然としている。

「じゃあ、なんて答えたんだっけ?」

「わかんねえっす」

 私は彼の口調を真似て、わかんねえか……、と呟いたのだった。

 私たちは夕暮れた町を黙ったままふたりで歩いた。向こうから歩いてきた高校生のカップルとすれ違って、なぜか死にたくなるくらいここで息していることが恥ずかしくなる。じゃ、と言って早歩きで遠ざかることもできたけど、その作為に費やす体力もない。開き直ろう。もともと彼はただの後輩、自分の遠くにいる人間、「心を開けるフレンド」百位圏外、実際の、身体の、距離がこれからどれだけ離れてしまっても、逆にぐうぜん、なりゆきで近づいても、どうでもいい。いまはたまたま、私たちの歩幅が合っているだけさ、と思いながら家までの距離をはかっていた。が、裕二があそこ行きましょうとつぶやいて、私たちは自分らが小学生のころよく遊んでいた小さい公園に入った。今は遊具などが外されて公園というより空き地、人気ない廃墟だ。児童たちの足も遠のいている。裕二は手入れされていない茂みのひとつから、公園の自然色とキツい対照を放つ色彩の漫画雑誌を取り出した、そして表紙のイラストをよく見ると、それは紛れもなく、いわゆる成人向け漫画雑誌である。

 私は後ずさった。

「なに? ありえん、きもいんだけど」

「でも女子も興味あるって聞いたことあるけど」

 私は意味のない言葉で防御した。

「敬語を使え」

「ハイ」

 まるで図書館の本をたぐるようにエロ本を扱いながら裕二がつぶやく。

「でもこれは、陸上部の二年生の女子が万引きしてここに捨てたって噂ですけど」

 そして裕二の口から私とも仲の良い子の名前が二、三出て、くらっとした。

 裕二は手元にあるエロ漫画をめくって何かを吟味している、探しているようだった。射出の予感はおろか、まったく興奮もせず紙面をめくっていく裕二の姿を私は不思議がってしまい、帰ってもいいか、とか、冷たい言葉を投げづらくなった。複雑に興奮していたのは、むしろ私のほうだった。

「見てください」

 裕二は私にひとつのコマを見せた。実に卑猥な場面であった。射出している。

「キモい、セクハラか」

 しかし、私は裕二に二日続けて言葉によるセクハラをしてしまったのかもしれず、私はいま彼にセクハラの仕返しを受けているのかもしれない。

「すんません。や、なんか、見てほしいのは絵っていうよりこれなんですよ」

 裕二が指差したのは文字、言葉だった、それは擬音だ。

「だからなんなん?」

 こんな音は、出ません。裕二は恥ずかしそうに言った、そのせつな、すべての興奮は終わった、私は彼の顔を、見られるようになった、二人で歩き始めてから、彼の顔を見ていなかった。

「お前、なんなん? 何をわかってほしいわけ」

「や、なんか、わかんねえっす」

 その裕二の行為とか、声、表情は、たぶん、単に射出されるだけではなくちゃんとした重みと思いを乗せた言葉のつもりで、私がごてごてに意味づけて心の中に仕舞い込むには、長い時間がかかった。七百万年が経って、いまもまだ、その途中なのかもしれない。「こんな音は、出ません」という事実は、「気持ちよかった?」と言ったり言われたりする、ふつうの人間であるためには、定期的に営む必要があるらしいその行為においては、大して役に立たなかったが、人間はいろんなものを射出せずにはふつうに生きていられないとみなされるような在り方に対しては、意味があった。あっただろうと思う。

 が、そのときの私はただ、自分もこの男の子に、お返しとして、彼の知らないことを教えなければいけない、という直感に駆られた。しかし、私の体から、彼に捧げられるものは、いかなる意味で、何もなかった。言葉でさえ、そうだった。私が思いついたのは、すでに昔、裕二の体から教えてもらったことだった。それを彼に伝え返すといい。

 私の学生かばんの中に昔使っていたMDプレーヤーが入っていた。合唱コンクールで歌う曲の打ち合わせのために持ってきていた。プレーヤーの中には小学生のころ聴いていたMDがそのまま入っていた。たとえば習字教室でこっそり聴いていたもの。

 私はかばんからたぐったイヤホンを耳にさして、少し大きな声で言った。もうその卑猥なやつはどっかに捨てて、という指図でもあった。

「山岡、ギターを弾くらしいね」

「はい! 夏休みに親に買ってもらいました。土曜の部活の後には先輩たちとバンド練習してるっす」

「文化祭の発表会が楽しみ」

裕二が、ふつうに笑った。

「ギターを弾くなら、これを知らなきゃモグリだと思う」てきとうに言ってみた。

「何がですか」

「私が今聴いている曲」

「なんて曲?」

「教えない」

「聴かせて」

「いや」

 私が今聴いている歌は、ピアノ曲ばかり入っている私のMDに母親がいたずら心で一曲だけ録音した有名なロックの曲だった。私はロックの曲はそれしか好きではない、というか知らなかった、私のプレイヤーはトラック数しか表示しないので、曲名もわからなかった。だいたいおんなじ毎日、という歌い出しで、それが曲名だと勝手に決めていた。私がやっていたことで、いまもしていることだった。この七百万年のあいだ、ピアノが柔道に変わって、柔道がベースギターに変わって、ベースギターが映画鑑賞に変わって、映画鑑賞がガーデニングに変わっても、それは、まあまあそれなりにつづいていた。その途上、人間についてどれだけたくさんの物理学を学んでも、それは、まあまあそれなりにつづく。目をつぶる。音量を上げて、激しいビートが耳に、そして胸へ射出されて、突き刺さる。いま、ずっと昔に買った千数百円のイヤホンから、音がじゃりじゃりと漏れていると思う。いま、目の前にいる痩せっぽちでちびの男の子がそれを拾い集めようとして、私の、ほんの少しだけ近くへ動こうとしていると思う。

 

 

 

最近のあとがき

 2023年の初めころからこのブログに短い創作を発表するようになり、それらをまとめて2冊の短編集を自分で作った。いまではもう感想の声をいただけることもなく、いささか寂しさもある。日記集も含めて自宅の押し入れに在庫が残っているのでオンラインショップまたは即売会でぜひ手に取っていただきたい。

 2024年はブログにあまり短編を投稿しなかった。23年もそうだがこの年も私生活がけっこう変貌したせいか創作をほとんどしなかった。むしろ勉強や読書が楽しい時期だったかな。Twitterでは小説の話や文芸に関する時事的な話題をたまに呟いていたが、くちばっかりのひとみたいでかっこ悪いな、とつねづね思っていた。

 そこで、2025年の6月に「朱雀」という作品をこのブログに投稿した。上の段落に書いた、「かっこ悪いな」という気持ちがそのまま主題になった。けっこう評判がよく、自分でもその内容が気に入った。過去にちょっとだけ成功した創作者が語り手だということが私の筆をなめらかにさせたが、この作品の好きなところはその点に留まらない。

 職場の同僚も読んで褒めてくれたり23年の時点では知り合いではなかった人たちが読んでくれて嬉しかった。やはり小説がひとに読まれるのは面白く、「朱雀」をたまたま月初めに投稿したので、「月刊わたし」として小説投稿を年末あたりまで続けようと思っていた。このときの私は商業誌に載るとか文学賞をとるみたいなことをもうあまり考えなくなっており、東京で開催される超大規模な即売会、ZINE文化、付随するシーンやムーブメントの満ち引きに関しても、それらに接していると避けられない心の筋肉痛みたいなものにもうあまり煩わされたくないと思うようになっていた。

 それでもブログにただ小説を投稿している自分が周りにどう見られているか多少気にならないわけではなかった。家の中ではパートナーの旗原理沙子がオンラインで編集者と打ち合わせしていたり、その内容を受けて原稿の書き直しに励んでいる姿を見て、うらやましいと思わなくもなかった。「朱雀」程度の文量(原稿用紙20枚程度か)なら一気に書きあげられる私は、7月の「月刊わたし」の構想に富んでいた。「朱雀」を書いたあと6月の中旬にアメリカの東海岸へ出張に行ったのだが、帰国する前に空港の土産屋でBOSTONという字の入ったマグカップを買った。それを「朱雀」を読んでくれた礼として同僚に渡したとき、彼が「こういうのってどこにでもあるよね」と呟いたのがある種のとっかかりになった。

 世界中の地名入りマグカップをなぜかたくさん持っている父親の小説を「月刊わたし」の7月号として6月下旬に書き始めた。ブログに載せる小説や同人誌に寄稿する小説は必ず一日で書き上げられるのに、わりと複数の要素が現れてきて、書きたいところまで書き終わるまで四日間くらいかかってしまった。文量も今までブログ小説のつもりで書いてきた作品の倍以上あり、これはブログに載せても「いいね」こそ付くかもしれないが、ちゃんと読んでくれる人は少ないだろうなと考えた。私はそのときこの原稿を前編と後編に分けて投稿しようかな、などと考えていた。それでも、ある程度文量のまとまった、自分にとってまっさらな新作がおのずと書けたのだし、編集者に送ってみた。そのあと理沙子に読ませてみるとものすごく評判がいいし、文芸誌に載らなくてもこの「おとうsea」という小説は自分にいいものを運んでくれそうだなという予感があった。私はあらためて「月刊わたし」としての小説を、今度はしっかり半日で書き上げ、吹奏楽部の男の子が語り手である「情熱」という短編をブログに投稿した。つまり、実はこの作品は代原なのだが、評判はよく、ありがたかった。だが、なにをもって評判がいいと言うかは難しく、客観的には、顔見知りの人たちに読んでもらって良く言ってもらった、というだけかもしれない。もちろん、たまに作品を投稿すると誰かは必ず反応してくれたという経験は糧になっている。

 また、「おとうsea」のはずみで、そのときの私はその作品をしのぐほどの文量になりそうな作品を半分くらい一気に書くことができた。そして「情熱」やのちにブログに投稿していく作品もまた、「おとうsea」くらい長く書けそうだなと思いながらいつも一日で書き上げられるくらいのサイズに落とし込んで投稿している。これは今でもやや考えているところで、やはり私は編集者に渡せば買ってもらえるかもしれない原稿(の種など)をほんとうに単にはてなブログに載せているだけで、どこか間違っているのではないか、という点である。やはり思春期以来「インターネット・創作ボーイ」だった自分にどこかで別れを告げ、もう少し職業作家の自覚を持たなければならないが、最近はもう開き直っちゃう頭もあり、こういうひとがいてもいいかなと思う。もちろん、依頼はほしい。

 「月刊わたし」として、2025年の8月に、林間学校を舞台とした「ずっとここにいられたら」を投稿した。9月には、普段の自分と同じような教員を主人公とした「バドミントンに向かない風の日」を投稿した。こうした作品を書くにつれて、中年期にさしかかった私の、私にとって新鮮な作風が少しずつ立ち上がってくるような感じがあった。そして、10月に「おとうsea」を掲載した文學界11月号が発売されたため、これで(当初は年末か年度末まで続けようとしていた)「月刊わたし」はおしまいにした。やはり編集者とやりとりしながら商業出版を頑張ろうと思い直した。社会的に見た場合、とくに注目されたわけではなかったが、周囲の人たちに「おれも久しぶりに雑誌に載ったで」と暗に伝えられてまずはよかったという面がある。どや、もあるが、以前から自分の小説を読んでくれていた人に雑誌媒体でそれを届けられたことは嬉しいことだ。2017年以来だから8年ぶりの新作発表になる。博士後期課程に進学したのち、初めて学会で発表したのも2017年だったため、作家としてのほぼ空白期間に私は、アメリカ文学に関する学会発表をしたり論文執筆をしていたということになる。くわえて、この期間に非常勤講師として複数の大学で旺盛に働いていたこともあり、私のアイデンティティから作家という柱はすっかり取り払われていた。それでもいつか......という思いがなかったとは絶対に言えないが、その気持ちの反面でもあるのだろう、文芸誌の目次に関心を抱けない時期が続いた。

 こんなふうに自分を振り返る文章を「おとうsea」の掲載以来書きたかった。まだ次の商業出版はできていないが、同僚や理沙子から「そろそろ新作が読みたい」とつねづね言われていたことだし、心の中になんとなく課していた"ブログ小説禁止"を解いちゃって、先月「なんでもやってみよう」という短編を投稿した。なんでもやってみよう。はからずもとても自己弁解になっている。とはいえ、この題に表れているように、私は誰かを間接的に励ますような物語を書くようになったなと思う、励まし、でなくともいい、まだ名前の付かない肌や熱や距離であればいい。自作本にまとまっていない作品が溜まってきたから、27年1月の京都文フリではそれらを新刊として渡したい。東京ではない違うところの即売会に前から行ってみたかった。新刊が既存作だけだと全国幾万人のファンの方々にとっては多少物足りないだろうから、書き下ろしも付ける。これはブログに投稿するのを、我慢する。でも、けっこう長いものが書けたなあと思って、また雑誌に載るかもしれないね。Sep. 2026

 

なんでもやってみよう

 

 子供ができた同世代の友人が増えてきた。東京にいる浜田の奥さんへ出産祝いをなんらかの形で送ろうと考えていたおり、二十七歳くらいのころ場末で飲んでいて、彼が「もう主人公って感じがしなくなってきた」と暗い顔でこぼしたことが思い出された。僕は珊瑚礁を研究している学者のはしくれだ。世界の中心が人間ではなく、土や砂や塩水の方にあるということを学術的にも情緒的にも当たり前にしている。だからさ、商社という場所は一人の青年に「もう主人公って感じがしなくなってきた」と言わせるような仕事をさせているわけだね。そう言ったら浜田は首を横に振った。くくるな、と訴えているようだった。太い首の筋が健康に動く。あと三十年もしたら僕たちは、ずっとその島に生えていた木の幹のような首で皺のある声を出したり柔らかいものを飲み下すだろう。つまりだ。主人公という物語的な観点はともかく、生物学的にわれわれはまだ若い。嘆く必要はない。硬くてあぶらっぽいものを大いに味わい嚙み砕き飲みこもう。すると喉のすべりもよくなる。大きく高く豊かな声が出る。よし、店を出たらカラオケボックスに行くぞ。

 僕たちはたくさんの歌を唄った。主人公でなくとも主題歌があるようだった。主題は繰り返される。八年経ってみると僕たちは腹が出たり髪が薄くなったりした。さらに何年か経てば目に見えないちょっとした病を抱える者も出てくるだろう。僕たちはすでに妻子の待つ家へ帰る時間帯や居酒屋で摂取する糖質、脂質、それからアルコール量を気にし始めている。揚げ物を頼むと浜田が怒った。その夜、久しぶりになじみの店で集まれたのだ。誰かが終電を待たずして退散する前に主題を繰り返しておいたほうがいい。

 僕の話を聞いてくれ。群像劇という言葉を知った。たとえば僕、浜田、そして小原がいて。もう少し増やしたほうがいいか。ここ十年そっくり会っていないけどテルと満田。五人のうち誰かが一人だけ主人公というわけではなく、主人公はいない、あるいは、皆が主人公である。僕の視点から物語は始まって、何かひとつのおちが付いたら、空白のページであるとか、ショットの暗転を挟んで浜田の視点に切り替わる。次は小原。以下同様。僕たちと僕たちの物語に共通点や集合先はあってもなくてもいい。そういう話、読んだり観たりしたことがあるだろ。たとえばな、僕たちは日頃サラリーマン暮らしに疲弊しているだろ、そうさ、僕もやっと数年前に島根の大学に就職できて君たちとは十年遅れてサラリーマンをしているわけだよ、ともあれ、僕たちはお盆休みにバーベキューを企画したとする。もう互いに家庭ある身だ、夏休みに子供を外遊びに連れていったりパートナーの実家に行ったりとかな、そういう合間をぬって、なんとか都合を付けて、僕たちは日本列島がナスときゅうりとお線香でしずまるころ、いっぽうテレビの中では甲子園の試合がどんどん進みゆくころに、めっぽう愉快なバーベキュー・パーティーを設定するんだ。僕たちはもともと県で二番目の男子高で知り合った友人同士であり、あのころは日焼けの付き方までみな似たようなものだったが、今ではそれぞれの人生を歩んでいる。僕はさっき言った通り学内業務ばかりで研究どころではないサラリーマン教員、浜田は中間管理職的駆け引きが板についてきた商社マン、そして小原は町の自動車屋の若頭だ。テルと満田も忙しくしているだろう。それぞれの鬱屈や啓示というものが生活の中で起こるのだろうな。それらが順番に語られていくとしよう。バーベキューとは無関係に僕たちの生活の中でそれぞれの鬱屈や啓示が起こるのさ。そしてそれらの感情や経験とは無関係にバーベキューは今年のお盆に訪れる。「最終章:バーベキュー」そのラストシーンは五人で缶ビールをぷしゅっと開けてね、それぞれの物語を喉越しに流すのさ。こういうのが群像劇だ。わかったかい?

 わかったけどさ、いつまで経っても群像劇が始まらないんだよな、と小原が皆の飲み終わった空き缶を片付けながら言った。十二年が経っていた。五人の仲間はそれぞれの地方に散らばっていたが、十月の初めに地元の山形へ戻ってきて、適当な河川敷で芋煮会をすることは僕たちの慣習となっていた。芋煮というのはしょうゆをベースとした里芋や牛肉やネギ、こんにゃくを入れた汁料理で、山形の郷土料理であるはずだが、郷土料理であるがゆえに、そのアイデンティティは県内の地域によってとても違いがある。里芋以外の芋を使う地域もあるだろうし、牛肉ではなく豚肉の地域もあるだろうし、なんならしょうゆじゃなくて味噌がベースの地域もあるらしい。そして、県外の人間が夏にバーベキューをやるように、山形県民は秋に芋煮会をやる。僕たち五人は盆休みにバーベキューを開催することを十二年連続で企画倒れにしている。いっぽうで、たまに参加人数が五人ではなく四人や三人の年もあったが、いちおう秋の芋煮会は十二年連続で続けている。芋煮会ではかならず小原が盆休みのバーベキューの話を出したが、肌寒くなりゆく十月に来年の八月のことを計画することはなんとなく皆難しいらしく、すぐに忘年会と新年会の話などに移ってしまう。たっぷりと中年になった僕たちの間ではお盆のバーベキュー会そのものにネガティブが貼られることも多い。とにかく夏は暑いよ、わざわざやるこたない、というかお盆はなんだかんだ忙しい、焼き肉はもうこの歳になるとな、山形の秋は都会と違ってちょうどいいよな、やっぱり芋煮が一番だな。こういう具合だ。

 炭の匂いと芋煮のしょうゆの匂い、そして地元の河川敷に広がる褪せた草原の香気が、中年の僕に温かいアイデンティティを与える。僕はこの五人で毎年芋煮会を開くことができてとても満足だ。

 それはいいけどよ、群像劇はどうなったんだ。芋煮を三杯食べて、缶ビールを二本飲んで気持ちよくなっている僕の隣、小原は繰り返し言う。僕は答える。お前は頭が固いよ、いいかい、たしかにあのときの飲み会、僕が学会で、小原が出張で、東京へ行くタイミングが合い、久しぶりに浜田と三人で新宿の「だいこん」で話したっけな。僕たち、毎日忙しすぎて疲れすぎている。きっとお盆休みにバーベキューをしよう。でもさ、僕たち山形県民だし、芋煮会でもいいじゃない。もうすでに群像劇は十二回分やっているわけだよ。すごいよ、この伝統は、この友情は。干支だよ。オリンピックは三回だよ。僕の娘はもう中一だよ。

 小原が「えーっと」という顔をしている。

 群像劇って芋煮会をすることなんだっけ、だと? たしかに「群像」と「芋煮会」の字面はそのかっこよさに違いがありすぎる。「芋煮会の群像」と言ってみてもやはりイモっぽいだろうか。いや、群像劇イコール芋煮会ではないんだってば。これも毎年言っている。われわれは五人それぞれの人生の物語を生きている、うん、そのバラバラの物語が交じり合う一点というのが、だいたい十月上旬に開催されるこの芋煮会なのだよ。素晴らしいよな、これ自体がいい話だよな、いい話だってことがこの歳になって身に染みるよ。皆勤はたしか小原だけだよな? まあ、小原だけ大学出たあと山形にずっといるもんな。そうさ。人生にいかなる凪が来ても、どんな時化が来ても、僕たちはこの芋煮会に毎年集うのさ。そして炭に火をつけて、野菜を切って、しょうゆを鍋にどぼどぼ入れながら、つかのま互いの人生の鍋を見せ合い、覗き合う。ちょっと流れに任せすぎた例えだったかな。ともかく、群像劇イコール芋煮会ではなくて、芋煮会は群像劇の最終話というか、最終章かエピローグに過ぎないわけ。まとめのエピソードっていうかな。そして芋煮会が終わったら、また新しい群像劇の第一章が始まるだろう。この芋煮会というターミナルに向かって、僕たちの群像劇はつねに・すでに、起こっているのさ。

 毎年同じようなことを言って、毎年そのような雰囲気になっている気がするが、小原は納得していない様子だ。いやだから、群像劇というのは、芋煮会ではなく、バーベキューが最終章なんだろ? と彼は言った。わざと、きょとん、としてみせているふうだ。

 僕は腹が立ってきた。だから、そこが頭固いと言っているの、バーベキューじゃなくて、芋煮会でも、いいじゃない。それぞれの日常に磨耗している僕らが、一堂に会するのは、バーベキューでも芋煮会でもハイキングでも渓流釣りでもいいじゃない。みんなが一年に一回集まれることが大切なのだ。こんなに幸せなことってないぜ。僕は毎年十月に芋煮会を開くことをいつもお盆あたりからわくわくしているんだ(そして、地元にいる小原に開催場所や買い出しの指示を色々言いつけるのだ)。

 オレはそんなに幸せとは思わないけどなー。小原がそう言った。ホスト役として車出し、買い出し、場所の予約、用具のレンタル、後片付け、等々を暗黙に任せられていた十二年間の不平不満が漏れたのだろうかと僕はヒヤリとした。べつに当たり前だと思っているわけではないぜ。それをやんわりと伝えてみたが、そうではないと彼は答えた。むしろ喜んでやっていると言った、「みんなが一年に一回集まれることが大切な」ひとときに地元の住人としてできることをやっている。しかし、これは群像劇ではないな。一年に一回集まって酒飲みながら芋煮をつついてるのは別に群像劇ではない。その最終章でもない。芋煮会は芋煮会である。芋煮会にあまり意味付けしすぎると幸せじゃなくなるぜ。これが小原の意見だった。彼の芋煮の味付けのように的確だ。

 じゃあバーベキューだったら群像劇になるのかい、と僕はスキットルを手に言った。べつにならないかもな、でも、少なくとも芋煮会よりはそうなのかもしれない、と小原は言った。お盆のバーベキューは秋の芋煮会よりも皆、ある程度の「努力」をしないと集まれないようだし、何より、ヨータ、お前が最初に設定したことじゃないか。お前が俺たちの群像劇の作者だとしたら、ちっとも「最終章:バーベキュー」に向かわんじゃないか。第一章が「芋煮会」で第十二章も「芋煮会」、その間も全部「芋煮会」。干支だよ。オリンピックは三回だよ。俺の息子はもう高一だよ。

 周りの三人がどっと笑った。テルが「じゃあ来年の十月はバーベキューにしようか」と言って、小原が「そういう問題じゃないんだよ」と、じゃれるように彼の首を絞めた。満田が「もっとやれ」とはやしたて、浜田がニコニコとその様子を見ている。幸せだ。この世に文句のひとつもないくらい落ち着いている。これが幸せと言わずして何がハピネスだろうか、たしかに意味付けしすぎないようにしたいが、芋煮会は「地元最高! 一生親友!」という喜びの意味に満ちている。そしてたしかに、芋煮会は群像劇ではなかった。僕の場合、無理に群像劇の主人公でなくともいい、小原が言ったように、群像劇の作者であるつもりもない、そもそもどうしてこんなことを口にしたのだっけ。

 芋煮会の場を離れて用を足しているとき、僕はこの会の起こりを考えた。その年、お盆のバーベキューを開催できなかったから代わりとしておこなったような記憶もあるし、お盆のバーベキューを開催するための会議の場として企画したような記憶もある。少なくともたしかなのは、芋煮会は未だ開催されていないお盆のバーベキュー会となにかしら紐づいているということだ。にわとりと卵のような関係性も思い浮かぶが、にわとりか卵が不在であるのは変なことだ。つべこべ言わずにバーベキューくらいさっさとやってしまえという頭もある。しかし強行したとてそれが群像劇の一片になるとは限らない。バーベキューはバーベキューであるだけなのかもしれない。以下同様。だから群像劇を始めるためにはバーベキューをちゃんと約束しなければならない。そしてバーベキューだけが群像劇を終わらせられるのだろう。僕たちは、僕たち同士で「ちゃんと約束すること」が難しくなった。バーベキューは仕事ではないからだ。そして魔王を打倒するというような大義でもない。

 便所を出ると浜田とすれ違った。僕は彼の行動を読んで河川敷キャンプ場の喫煙スタンドの近くで待ち受けた。五人全員でモクモクとやっていた時代はとうに過ぎた。今では浜田だけが煙草を吸う、もちろん紙巻ではなく電子だ、しかもこうして友人と酒を飲むときくらいしか取り出さないと言う。僕は喫煙スタンドにふらふらとやって来た浜田へおもむろに訊いた。その後、主人公感はどうなった? 

 主人・交換? そんな言葉の区切り方で浜田は答えた。いや、主人公・感。かなり昔になるけどな、主人公感がないって僕に愚痴ったことがあっただろう。

 電子煙草を握って浜田が川辺を眺める。彼はこんなことを言った。「世界の中心が人間ではなく、土や砂や塩水の方にあるということはわかっているんだけどなあ。」それは僕の受け売りだった。「ヨータが群像劇とか言ったりしたのもその時期だっけ? みんなが主人公であり、あるいはその物語に主人公はいない。」

 いや、僕の記憶だと浜田の「主人公感がない」発言は早や二十年前であり、僕が皆の集まったとき群像劇の話をしたのは十二年前だ、八年も開いているんだな。そう伝えると浜田は、そうか、同じ時期の言葉のような気がした、歳をとるほど、最初はばらばらだった出来事がひとつのページにまとめられちゃうよな、と言った。

 僕はさっきの小原とのやり取りで思ったのだけどね、僕たちの群像劇というのはまだ始まっていないか、すでに終わっているんだな。たとえば、僕たちが全員でセンター試験を受けた時期には、それぞれの群像劇が間違いなくあったよ。わかりやすく言うと。でもこの歳になるとな、物事に物語みたいな始まりや終わりが見つけられなくなる、そして気づけば浜田が言うようにいろんな出来事はけっきょくひとつのページにまとめられてしまうんだ。究極的にはどんなに偉い人間もその生涯は一行になってしまうんだよな。ダーウィンは進化論と沈降説を唱えました。僕たちは群像劇の登場人物イコール、主人公のひとりにすらなれない。僕は芋煮会の出席者さ。でも、それでいいんじゃないかな。群像劇の主人公になれなくても、芋煮会の出席者でいられればそれでいいよ。村岡洋太は生涯芋煮会の出席者であった。ちょっと飲みすぎたな。

 僕は浜田が出す煙にあぶられながら、学生時代に読んだ本のことを思い出していた。ライ麦畑の捕手。それは、物語の題名であり、もとはたしか、作中で口ずさまれる唄であり、なにより、ひたすら独り語る主人公が、この世に文句を吐きながらつかのま読み手にその願望を零す、彼のなりたいものであった。かなりナイーブなことを言うと、なりたいものがない限り主人公にはなれない。主人公とはなりたいものになろうとするその姿を指すからだ。あの少年はライ麦畑の捕手になりたいと思った。僕は芋煮会の出席者だ。それでいいじゃないか。

 僕と浜田は芋煮会に戻った。五人の中では司会や音頭を取りたがる満田が「さてみなさん、そろそろ今年の目標を」と言った。彼の持ちネタなのだった。もうその年はあと三か月くらいで終わるのに、新年会みたいなふうに切りだす。僕たちは笑ってやって、「はいはい、わかったよ」という顔で向き合い、巨漢のテルが「パルクールを始める」と言った。僕たちは満田に対してとは違い「ちゃんと」笑った。テルにはそれより先にととのえることや上達すべきことがあるだろうと思われた。浜田が、なんでもやってみよう、と、テルに向かってと言うより、芋煮の鍋に向かってつぶやいた。「最近、下の子と一緒にいるときは呪文みたいに唱えてやっているんだ。なんでもやってみよう。けっこういい子育て法だぜ。」お前以外はみんな、そんなに小さい子供はもういないよ、とテルが肩をすくめた。でも、いい言葉だな、と小原が反応した。ほんとうに「呪文」みたいに、むっつりした顔で浜田が芋煮の鍋に向かって「なんでもやってみよう、なんでもやってみよう、なんでもやってみよう」と訥々した調子でつぶやくと、皆笑った。酔っぱらった僕たちは、節をつけて「なんでもやってみよう、なんでもやってみよう、なんでもやってみよう」と合唱した。迷惑な中年芋煮会集団だった。

 テルが僕たちの奇声にうながされて、川とは反対の駐車場側へぽてぽて歩いて行った。車のないところに行き、見ていてね、と手振りで伝えた。テルは縁石に沿って僕たちの視界の端から小走りし始め、だいたい二個飛ばしで縁石にぴょんと乗ってはずしんと降りて、という走り方を繰り返していた。

 僕は言った、「なにしてるの」

 息を弾ませたテルは僕たちに向かって、「パルクール」と言いながら小走りをつづけた。「YouTubeで、これが基本だと観たんだよ」

 僕たちはその言葉を聞いて、その様子を見て大いに笑ったがたしかに、算数は皿の上のりんごを数えることから始まるし、打楽器はバチをトコトコ叩くことから始まる。街中を忍者やスパイダーマンみたいに駆け回り飛び回るパルクールも、その基礎はそんなものかもしれない。なんでもやってみよう。遠景のテルが僕たちの小さい子供のように見えた。僕は新しいビールの缶を開けて喉を鳴らしたあと、レジャー椅子の飲み物入れにそれを収めた。芋煮を一杯掬ってそれを食べた。友人が何か頑張っている姿を見ながら臓腑におさめる飯や酒は美味い。芋煮会の出席者もパルクール選手になれるわけだ。テルのパルクールという群像劇はもう始まっているのかもしれない。若々しく俊敏な若者だけが出てくるスポーツ物語はある意味ではつまらないだろう。

「今年の目標……、それはもちろん来年のバーベキューの決行や日取りに合意を付けることだ」会話は進行していたらしく、小原がそんなことを言っていた。

「小原は意固地になっているんだ。小原のバーベキュー・リクエストはもはや伝統芸能だ」と満田が反応した。

「なんでもやってみよう」と浜田が言ったがすぐ、「ああ、来年の夏はシドニーだったわ」とつぶやいた。

 僕は、「水泳に凝ってみようかな」と言った。本当の「今年の目標」として僕には腰痛を改善するという気持ちがあったが、それは市民プール通いによって四月くらいに達成されていた。スイミングの習慣は今でも続いていたが、中学で陸上部だった過去を思い出すと、単なるフィットネスではなくタイムの短縮を追求する泳法や遠泳に興味を抱き始めていた。

 小原、いっしょにやろうぜ、と僕は言った。年末に互いがどれほど成長したか報告し合おうぜと言った。小原はたしかカナヅチだったから、これは僕たちの、まさしく群像劇になりそうな気がした。

 パルクール初歩練習から戻ってきたテルや浜田、そして満田も「水泳か、ああいいね」と口を合わせた。調子のいい満田が「五人でドーバー海峡わたっちゃう?」と言った、中年水泳団の結成だった。なんでもやってみよう。

 秋が深まって僕はすっかり市民プール通いをやめていた。この時期職場はとても忙しい。小原から「バタフライができるようになった」とメールがきていたが無視した。長年の付き合いだ。メールの無視がなんらかの意味を帯びることはない。次に会ったときに直接「この前メールでこんなこと書いてあったけどさあ」と切りだせばいいだけだ。しかし僕は直接に彼と会ったとしてもその話に反応することはなかった。そのまま十三年が過ぎて、水泳どころか運動全般の話を小原としづらくなってしまった。大病を患った彼はいまや体を激しく動かすことがかなわないからだ。その年、九月の下旬に僕は時間をつくって山形に帰省し、大病院で寝ている小原を見舞った。僕は島根の銘菓を病室のテーブルに置きながら、「小原の芋煮がまた食べたいな」と言った。

「みんなそう言うよ」と彼はかぼそく言った、「十月には退院できると思うよ。」

「そうか。今年も絶対集まろうな」

「しかし指が上手く動くかわからない、運転免許ももう返納しようと思っているんだ」

「もちろんこれからは、皆で手伝い合うよ。小原だって、なんでもやってみよう。リハビリがんばれよ」

「懐かしいな。『なんでもやってみよう』って、一昨年くらいに浜田が歌っていたんだっけ」

「僕の記憶では、初出は十三年前だ」すべて同じページの出来事だな、と小原が言った。

「なんでもやってみたよ」そうだな、と僕が言う。

 小原の口から、ソフトテニス、エレキベース、バイク、スイミング、ワイン、という言葉が出てきた、僕の正確な記憶力は、それらすべて僕が彼をそそのかして始めさせたものだと理解した。「この部活に入ろうよ」「バンド組もうぜ」「ツーリングしてみたいな」「運動不足とカナヅチなおせよ」「やっぱりワインくらい詳しくないとな」鳥肌が立った。行儀よく、それぞれ十代、二十代、三十代、四十代、五十代の記憶と呼応していた。衰弱してしまった老境の彼からそれらを聞くと、人間が生涯で凝ることができる趣味の平均的総量のような気がしたし、一つの群像劇のような気もした。その章立ては多く充実しているようにも思えるし、やや物足りないとも感じる。

「どうしても難関国立大に合格するためにソフトテニス部を途中で辞めるとか、エレキギターを買ってみたけれども自分に音楽的素質がいっさいないことに気付いて練習を止めたなんていうのはべつにいいさ、いちばんひどかったのはバイク。お前、教習所に入金すらしていないだろ。しょうがないから一人で走っているうちに事故ってしまった」

「あれはすまんかった」そして僕はひっそりと訊いた、「テニスも楽器も二輪も、それから水泳やワインも相当凝ったみたいだけど……」

「まあな。どれも趣味以上と言っていい。じつはぶっ倒れたのは、ソムリエ資格試験のすぐあとだったんだ」

 僕は、高校テニスでベスト4に入りその後二十代前半にはインディーズチャート上位を席捲したバンドのベーシストを担い中年期でオートバイク世界耐久選手権やドーバー海峡レースに出場し壮年を迎えてソムリエのトップ資格に合格した親友の話をさらさらと聞いた。僕はいちいち話を塞き止め、感嘆し、長大な言葉をその時々の思い出話に注がずはいられなかった。たまげた。本当に僕たち、いろんな人生を歩んでいる! だけど僕は、もう老人だ。圧倒的に優秀な友人がいても、必要以上に自分の人生を卑下したりはしないよ。自分に誇りを持つ心の構え方を知っている。僕だけではなく、浜田、テル、満田もそうだろう。これぞ、群像劇なのだ。そう、皆が主人公であり、人生や各章の内容に優劣はないのだ。僕には僕で山あり谷ありの人生があった、たとえば珊瑚礁研究者としてのキャリアがあり、名誉教授という社会的地位がある。世界の中心が人間ではなく、土や砂や塩水の方にあるということを学術的にも情緒的にもよく知っているからこそ、ちっぽけな自分の物語をつつましく紡いできた。そんなことを一気に心中で語ってしまうこと自体が、僕が小原にいま急速にコムプレクスをつのらせている証拠か? 小原は僕が挫折したり放棄した物事に限って極めてやがる。僕だってテニスでせめて県大会に進みたかったし、欲を言えばギターヒーローになりたかった。いや、違う。冷静になろう。僕が諦めてきたことに限って小原が極めてきたわけではなく、僕がふと導いた物事を小原は淡々と続け、僕自身は諦めてきただけなのだ。小原は僕に導かれし者なのだ。僕に導かれることによって小原は楽器や水泳を極めたというのか? いっとき変な妄想をする。小原は十三年前、通算第十二回の芋煮会で僕のことを群像劇の作者だと言った。だとすれば僕が小原ほか不特定多数に世界平和を促していたらいまごろ、この日本は、この地球は武力や政治や「魔法」の策術を極めた導かれし者たちによって諸悪の根源が破られ、平和がもたらされていたというのか! いや、冷静になろう。「僕たちの」群像劇についてだ。僕たちの群像劇とはなんだったか。思い出せない。目がかすんで喉はいつもいがらっぽいし頭はぼんやりして足腰はいつも痛い。おまけに小原ほどの大病ではないけれど去年、大腸をやった。酒やコーヒーがあんなに大好きだったのにもうあまり美味しくないんだ。それからあぶらっぽいものが受け付けなくなった。そうか。

 僕は病床の小原に、「あのさ、来年のお盆にバーベキューしような」と言った。

 小原は窓のほうを向いて、「開催しないに決まっているさ」と言う。何度か言い直しても、同じ反応だ。仕方ない、僕には、この点に関しては信頼がないんだ。

 浜田とテルと満田にも連絡して、なんとか開催までこぎつけてみるよ。今年の芋煮会は、もういいよ、来年のお盆まで、かならずよくなれよな。

 小原は窓のほうを向いたまま黙っている。僕は病室を出る間際、どうしてもとあることを訊きたくなった。

「小原、お前はバーベキューも当然極めたんだろうな」

 小原は黙っている。

「僕は腸をやった。もう焼き肉で食べるようなニクはほとんど受け付けないんだ」

 小原の顔が少し傾いた。

「もし、もしね、来年のお盆にバーベキューをちゃんと約束して、開催できたらだよ、そんなふうに腹の弱っている僕でも『ああ、来てよかった』と思えるようなバーベキューを繰り広げてくれるんだろうな?」

 僕は小原の耳の桃色を目に収めながら病室を出た。扉を閉めたあと、彼に聞こえているかわからないが、また少し言葉を床に落とした。浜田は口腔が過敏になる病気になって、塩辛いものがまったく駄目になってしまった、テルは重い糖尿病だし、満田はボケ始めて会場まで辿り着けるかもわからん。……注文が多いほど病人は張り切るだろうと思ったのだ。僕たちの群像劇はまだ始まっていない、僕たちはこのまま老いてはいけないのだ。とはいえ残された時間はそう多くはない。世界を救うために僕ができることがいろいろありそうだ。なんでもやってみよう。光の勇者たちを導く者として。

 ある意味でボケてしまったのかもしれない(でも本気だ)、そんな僕の背中に、病室の窓から小原が声をかけた。

「ヨータの言うことはわかったけどさー、やっぱり、いつまで経っても群像劇が始まらないんだよな」

「なぜだい?」

 小原は咳払いをした。

「けっきょく、お前ばっかり喋っているからだよ。序章か第一章あたりでずっと止まってる」

 僕は恥ずかしくなった。人生の日暮れにそんな気持ちになっても、もう遅いということにはならないだろう。そう言い聞かせる。なぜなら、僕たちの群像劇はまだ序章だからだ! なんでもやってみよう。窓が閉まった音、カーテンが引かれた音をたしかめると、僕は駐車場に行って縁石に沿って走り、数歩ごとに縁石に乗ったり下りたりを、黙って、繰り返した。

 

 

バドミントンには向かない風の日

 平凡な男が営業車に乗っている、いつもと同じ街を同じようなハンドルの角度と腹の心地で巡っていく、あるときその見慣れた風景からいっときはみ出してみたくなる、きっかけは、なんだか太陽がまぶしかったから、というくらいささやかなものだ、光を避けるように、また別の光を求めるように、たとえば彼の営業コースとは無縁な有料道路へ漕ぎ出していく、午後1時の凡庸な白い空が、午前5時の白い空のように変わる、そこから先は、その白さが降りてきて、視界が広がるまま、すべてが薄れるままに進んでいく。有料道路の景色が、ふと湖水地方のようなものに変わる。

 銀次郎はそういう話を二つ、三つは知っていた。小説だろうが映画だろうが、そういう話がけっこう好きだった、理由ははっきりとしていて、銀次郎はこの歳まで会社に勤めたことがなかったからだった。会社員の経験がない銀次郎は、そういう話にリリシズムを感じた。自分でも書いてみようと思ったことがあるが、途絶した。やはり経験のないことを書くと嘘っぽくなるし、それは土台からしてそうであって、彼は運転免許も持っていない。

 銀次郎は40歳になって初めて会社に勤めることになった。それまではパートタイムの仕事を転々としていた。東京の西側から埼玉や千葉の果てに電車で片道2時間かけて行き、学生にドイツ語を教えていた。相手が大学生でも、教えることは中学生のレベルで十分だったから、準備に苦労することはなかった。学期の終わりには、テストの代わりに視聴覚室でヌーベルヴァーグを観せた、それで喜ぶ学生は年々減っているようだ。ドイツ映画のつもりで観ている子はたくさんいる。

 だから最近はふつうにテストを(テストも)していたのだが、こんなこともあった。不真面目な学生にテストを受けさせたら、点数が低かったので、範囲を絞ってもう一度テストをさせた、それでもダメだったので、そのテストに出題される内容を学習できるプリントを渡して、三回目のテストをさせた。やっぱりダメだったので、じゃあ、テストはもうやめよう、そのプリントを上から下まできちんと解いてきて、それを提出したら良いということにしよう、と銀次郎はその学生に言った。こういうとき、最近の若者は露骨に感謝したり苦しんだりしないんだな、と銀次郎はまず思った。学生は身をそらして、

 まだ続けなくちゃいけないんですか、先生、ぜったいオレのこと好きでしょ!?

と銀次郎に言ってきたのだ。一瞬、何を言われたのか彼はよく分からなかった。そんなふうに自分も誰かに対して言ってみたいものだ、と、銀次郎は帰りの常磐線で考えた。

 電車に揺られていると、あの学生の「鳴き声」(のようなものだと彼は捉える)に込められたニュアンスは、特に難しくもなくわかってきたが、それとは別に銀次郎は、まるで「お前は暇だな」と言われているようにも感じた。たしかに銀次郎の生活は同年代の男たちと比べると暇だったかもしれない。家庭もなく、会議もなく、早起きはあったが、その代わり残業はありえない、決まった時間に、決まった教室へ行き、ドイツ語の初等文法を講義する。社会保険も賞与もなかったが、ふんだんな時間があり、その時間を持て余している自分は、不真面目な学生にも温情で単位をあげようと、再テストや補習的課題を渡してあげている。

 その姿を他の非常勤講師に見られて、やんわり警告されたこともあった。そのような特別扱いは上の方で問題になることがありますよ……、と。銀次郎は答えた。いえ、単位を落としそうな子にはすべてこのように措置しているのです。その講師は少し目を丸くして、そしてまた短い間をとって言った。大変でしょう、それは。しかも、そうしたら「真面目に勉強して単位が取れた子」から、これは不平等であるとの批判が出ますよ。銀次郎は思った、ははは……、自分がちゃんと合格できているならどうでもいいじゃないか、そんなこと、どうして他人のことを気にするのだろう……、暇なのだろうな……。しかし視点を変えてみれば自分のほうこそ暇なのかもしれなかった、銀次郎は「講師控え室」の中でちょっと浮いた存在だった、あの先生はなんかいろいろと学生にやらせて誰にだって単位をあげてしまうらしいと。銀次郎からしてみれば、ははは……、「上の方」ってそもそもなに? ということをいつも思っていた、どの学校に行ってもそこを「職場」とは思わなかった、そこで学生のほかに会うのは、控え室に隣接した事務室の女性職員二人と、控え室ですれ違う数名の若い講師たちだけだった。

 銀次郎は暇な時間に、学生のための補習教材を作るのではなくて、本当はドイツ文学やドイツ哲学の論文を書かなければいけなかった。ニンテンドーSwitchの方が面白いから、そっちは相当にさぼっていた。それでも、大学二年生のころにふと、現代において重要な概念や文芸はすべてドイツから生まれているということを、雷鳴的天啓のごとく銀次郎は発見したものだった、実際、そういうことはフランス文学の研究者も英米文学の研究者も、あちらもこちらも、みんな思っていることなのだ。銀次郎はそういう雷鳴をたまたまゲーテとかベンヤミンに落とされたにすぎない。銀次郎は、会社のようなところに勤める自分をイメージできなかったし、研究者とはきわめて洗練された選択であるように思えた。だが実際、ほとんどの若者がふつう「会社のようなところに勤める自分をイメージできない」のであって、だからこそ「就職活動」の中でいろいろ学んでいくわけだが、ともあれ、そんなわけで、銀次郎は就職活動を始めるのも会社に入るのも、他人より18年くらい遅くなった。

 

 現在、銀次郎に給与のほか、年に二度の賞与を振り込んだり、社会保険や住居手当を与えているのは、これまでと同じように学校という場だったが、彼はそこを会社のように感じた。何が、というと難しいのだが、家から出勤してきて座るところが講師控え室ではなく、他の社員と共同のオフィスとなると、やはり見える景色も変わった。とはいえ、銀次郎にあてがわれた部屋は、二人で使うところを人員の関係により彼一人に使われていた。同じ時期に入社した同僚(というのも彼の中で新たに増えた語彙だった)から羨ましがられたが、銀次郎は、かえってそこにもう一人の自分が居るように思えてならず、その新しいもう一人の自分がいつも、これまでの自分がやってきたこととは異なる仕事をやっている、やらなければいけないと思って動いているという感覚があった。とはいえ銀次郎の身に増えた「仕事」というものの中に取り立ててここに特記するようなものはなく、彼は大きな机の上で難解なドイツ哲学の本を開いたり、すぐ閉じたり、何も更新されないパソコン上の画面を開いたり、しばらくして閉じたり、その「研究室」と呼ばれる空間をこまめに整頓して掃除した。

 それから、その場所にいる人々がほとんど銀次郎よりも年上だということも、彼がそこを「会社」だと思う一因になっていた。会社の仕事というものは、そのほとんどが自分よりも年長の人間によってなされることである。この認識は、22、3歳くらいまでの若者が思うのならたしかに正しい、しかし、この職場はなぜか40歳の銀次郎でも若手扱いであるから、彼はその認識を引きずったままだった。実際、この会社にはそれぞれがやるべき仕事が山のようにあるようだった、銀次郎はそのほんの一部分しか任されていない、ほとんど仕事がないのと同じだった、あと数年経てば加速度的に仕事量は増えると上司に伝えられたことがある、試用期間というわけでもなさそうだが、とにかく銀次郎は泳がされていたようだった。もしくは、週に6コマあるドイツ語の授業と英語の授業を担当するだけで十分な働き、ということだ。

 地方の会社に就職が決まって、それまでずっと東京で一人暮らしをしていた銀次郎は、引越し先の賃貸の家賃がどれも安いことに驚いた。実際に住んでみればさまざまな物価もなかなか安い。定収入が得られるようになって、さらに住宅手当も付いて、毎月、けっこうな金が浮いている、という(事実というより)感覚があった。そこで銀次郎は、ニンテンドーSwitchやプレイステーションにも飽きてきたころだし、月末には夜な夜なガールズバーや風俗店にちょっとだけ行ってみるということを覚えた。貧乏苦学生だった若い頃を引きずって、東京に住んでいたころは考えにも及ばなかった行動であり、誰も自分のことを知らない新しい土地で、経済的に安定した暮らしを始めるということが、彼の中でとても自然に性欲と結びついたのである。銀次郎は23、4歳の時分、大学を卒業して会社に入社した友人たちから、会社の先輩にピンサロやソープに連れて行ってもらった、という話をよく聞いた。羨ましいと思ったわけではなく、そういうものなのかと彼は学習し、今、店へ行く道ではいつも思い出している。そのうち彼の中にはある種類の勇気が培われてきて、客や店主との距離が近いバーや居酒屋に好んで足を運ぶようになった。調子のいい日の銀次郎は、そこで多弁を振るって店の中心に座することもあったのだ。そんな銀次郎は、あるとき、ある店で、5歳年上の早苗という女性と知り合い、貸家に引っ越して一緒に住むことになった。

 ある夜に、どうしてこういうことになったか、という「ふりかえり」を、枕を並べて早苗と銀次郎はしゃべった。早苗は「酔うてるあなたに『ぜったいオレのこと好きでしょ』と言われて、いや、そんなことないけどな、とその場では思ったけど、そのうち、そうかもな、と思うようになってきた」と言った。銀次郎はそれを聞いて、「『あんたもヒマやな』って言われているような気がしなかったか?」と返したが、彼女はキョトンとした。「たしかに風邪を引いたギンちゃんのアパートに桃やらネギやら持って出かけたときはそんなことも思ったかもしれへんけど」早苗は背中を向けた「目の前にいるのはオッサンなのに、なんや、ずいぶんガキから何か言われているような気がしたわ、それでときめいたよ」

 

 銀次郎も早苗も車を持っておらず、どこに行くにも手をつないで歩いて行った、目的地がちょっと遠ければバスに乗った。住んでいた町で、そういうことをする人は少なかった、ましてや中年の男女ふたりでいつでも道端をのんびり歩いているような人はいない。たまに同僚や教え子から「せんせい、道で彼女と歩いてましたねえ」と微笑みの中で言われた。それを家に帰ってから早苗に教えると彼女は喜んだ、「ちゃんと彼女に見えたんやな」「彼女さんは美人さんやと言うとった?」などと言って銀次郎にじゃれてくる、平和な暮らしだったが、銀次郎には思い起こされることもあった。銀次郎の地元はこの町と同じように車社会の田舎だったが、高校生の時分、毎週末チャリンコ飛ばして隣町のTSUTAYAとかブックオフに通っていたら、親が同じ町内の人に「ギンちゃんがんばって自転車こいどるねえ、いま中2くらい? そういう部活かい?」と言われたらしい。その人は車窓から銀次郎の姿をいつも見ていたのだ。親はなんとも恥ずかしくなったらしく、「お前、もう土日は自転車乗らないでずっと勉強していろ」と言われた。その通りにしたから銀次郎は東京大学に合格することができたが、しかし、高校生になっても自転車を漕ぎまくって隣町まで移動することを恥ずかしいと思わないような人は、けっきょく、40歳になって初めて「会社」に入って、プライベートでは遅まきのガールフレンドと田舎町をふらふら歩いていても、なんにも恥ずかしいと思うところがないのだった。

 そんなふうに暮らしていると、とても心は泰平ではあったが、いつも散歩を二人でしていても、それだけでは飽きるし、運動不足だなと彼らは思い始めた。日曜にイオンのおもちゃコーナーでバドミントンセットを買い、近所の銀次郎と早苗は1時間くらい近所の公園でハネを飛ばしあった。公園では、銀次郎よりも年少と思われる青年が自分の息子とキャッチボールをしていた。汗だくのへとへとになった二人は逃げ込むように5時から開く焼き鳥屋に行ってビールを流し込み、どうすればいかに鋭いショットを打てるかということを話し合った。銀次郎は中学のころ軟式テニスをしており、早苗は高校まで卓球をしていたから、二人ともラケットスポーツについては身体的な心得があって、ふとした思いつきにしては、のめり込んでしまった。

 

 その日以来、銀次郎と早苗は二人で道を歩いていたり、家の中から窓の外の枝葉を見つめていたりするときに、今日はバドミントンができそうだね、この風はぎりぎりシャトルが揺れないんじゃないかな、などと冗談めいて話し合うようになった。というのは、早速後日にもう一度バドミントンをやりに公園に行ったら、天気そのものは快かったが、風のせいでシャトルが思うように飛ばず、まるでラリーを続けられないという憂き目にあったからだ。当然ながら、バドミントンの軽いシャトルは風の影響に対して非常に弱く、暑い夏の昼下がりに「いやあいい風が吹いているなあ」と感じていても、それはバドミントンには向かない風の日なのだった。銀次郎は町にそよぐ風に、ほんの少しだけ、敏感になった、そのとき、銀次郎はこの土地に対する親しみをほんの少しだけ深めた。

 

 また新しい週が始まって、銀次郎の仕事が始まる。会社に着いたらまず喫煙所に行って、ぼんやりする。手首が筋肉痛でしびれているということを、煙草を口に寄せるとよく感じる。仏頂面を各々のスマホの画面に落としている同僚たちを眺めると、この人たちも休みの日にはバスケットボールや草野球で朗らかになっているのだろうかと考える、昼が来る、また煙草を吸う、建物の屋上を銀次郎は見つめた、バレーボール。会社の屋上でバレーボールしている会社員の映像を何度か見たことがある、ひとつの典型的なイメージとしてなんとなく昔から記憶している、それは昼過ぎや夜9時に放映されていたドラマの中だけで、本当に会社の昼休みにバレーボールをやっていた人たちはいたのだろうか? ここも会社であるなら、この時間にどこかの屋上でバレーボールをしている人たちがいてもおかしくないはずだった、花火やバーベキューや、ストライキやテロ、楽器演奏にピクニックならまだしも、バレーボールのトスの上げ合いくらいなら、やっていてもいいはずだ、今、隣でイライラした顔をしながら電子タバコを吸っているおじさんに、バドミントンのラケットを手渡したら、昼休みの終わる1時半まで自分とハネの飛ばし合いをしてくれるのだろうか? 銀次郎もおじさんだった、しかし、相対的に歳の若いおじさんだったから、彼よりも年長の、仕事をたくさん抱えているおじさんやおばさんたちと違って、余計なことばかりを考える暇があった。

 この職場は森と山に囲まれていて、銀次郎に任されている仕事は、営業車に乗って森と山の周りを営業してくることではなく、その建物の中で、波風立てず、円滑に、不具合なく、じいっとしていることだった、朝の9時までに決められた場所に着き、夕方の5時半までそこでじっとしていなければいけない、仕事とはそういうものだと、同年代の会社勤めをしている友人に言ったら、心底「そんなことも知らなかったのか」と思っているような顔をされるのだろう。だから、バドミントンって面白いよ、と今では中間管理職に就いている腹の出た友人たちに言い放って、「そんなことも知らなかったのか」という顔をしてみたい。

 そして夕方が来て、また煙草を吸って、あと1時間経ったら銀次郎は退社する。周りには誰もいなかったが、喫煙所ではあまり見かけない顔がそこを通りかかった。銀次郎と同期入社した、三浦さんだった。

 三浦さんは「いやあ見られてしまったか、でも、そこにいたのが坂本さんでなんとなくよかった」とつぶやいた、三浦さんは銀次郎よりもおじさんだったが、やはり、今はまだ他のおじさんよりも仕事がまったく少なかった、1限目と5限目には授業が入っていないので、朝夕に構内を散歩して、運動不足を解消しているらしい。それはいいな、と銀次郎は感じた、この人なら、昼休みに一緒にバドミントンをしてくれそうだな、と彼は思った、さらに面白かったのは、三浦さんはドトールの紙袋を手に下げていた、森と山の周りには、ドトールもスタバもなかったはずである、「何か持っていないと、何しているんだと言われる気がしましてね」と三浦さんは説明した、この人は、田舎町で育った少年期にチャリンコを漕いで近所の大人に見咎められた経験があるのではないかと、銀次郎は瞬間的に妄想してしまった、それで面白くなったのだった。

 三浦さんは言った。

「来週の納涼会に行きますよね?」

「ええ、行きます」

 三浦さんのそれは職場の机から何か引き出してきたような言い方だった、銀次郎と接触してしまったために彼は三浦さんを仕事に戻してしまったのだ。

 職場では盆休みの前に納涼会を開くのが恒例だったらしい、いろいろな事情があって近年は見送られてきたが、新入社員も増えてきたことだし(またその社員たちが職場になじみ始めた頃合いでもあるし)、上の方が再開を提案し、職場の部署の一つが企画している。三浦と銀次郎は去年の春に入社したため、互いの上司から参加を積極的に勧められていた。

 三浦さんは構内の東側をぐるっと歩いてきたそうだから、銀次郎は西側をぐるっと歩いてみようと思って、そうした。おじさんたちやおばさんたちは、夕方だというのにきっと仕事がたくさんあるのだろうから、建物の中に引っ込んでいて、そこには誰もいなかった、それでも、建物から建物に仕事の書類を持っていた社員に話しかけられて、何しているんですか、坂本先生、と話しかけられた、やはり、何かすることがなければ、そこをただ歩いていてはだめらしい、銀次郎は自分に「そんなことも知らなかったのか」と爽やかに言った。

 家に帰ると、すぐにいつもと異なる空気を感じ、いつもと同じ夕日の入り方が、やけに暗示的に眩しかった。早苗が荷物をまとめて出ていった。彼女の残した書き置きや、その後に少しだけやり取りしてくれたメールの内容によるとこうだった。最近、消費者金融で金を借りていたことがふとしたきっかけで分かり、致命的だったと。この歳で交際するにはそれなりの現在と将来を見据えなければいけないが、消費者金融に頼らなければいけないほどの何らかの支出があり、それだけでも不安なのに、その事情を自分に相談してくれないのは良くなかった、と。それから、自分と交際したり同居を始めてからも、何回かキャバクラやソープに行ったのは明らかであるし、それが今後も続きうることは、互いの歳の割に自分たちは倦怠期の夫婦ではなかったわけだし、許容できない、と。さらには、消費者金融の件と夜遊びの件が何らかの点で結びつくのならば、私はあなたと話し合うよりも、辛くて面倒だが、また一人の暮らしを新しく築き直すことを選ぶ。早苗は書いていた。私は多分ギンちゃんが思うよりやきもち焼きの現実派なのだよ。知らなかったな、いや、知っていたかなあ、と銀次郎はLINEの入力画面に書いたり消したりをする、いつも二人で見ていた名前も知らない木々の枝葉がまったく揺れていないのを確かめる、冷房を入れないと汗が顔をつたって仕方がない。

 

 納涼会の日、銀次郎は自分の研究室でじっとしていた。いつものように、ドイツ文学の分厚い原書を開いたり、すぐ閉じたり、何も更新されないパソコンの画面を開いたり、しばらくして閉じたり、あとは部屋を掃き掃除した。仕事がほとんどない銀次郎のもとには、担当している学生の他には滅多に誰も訪問しないのに、珍しく上司がやってきた。納涼会のバスの時間について変更の連絡でもあるのだろうかと彼は思った。夕方になったらスクールバスを使って社員たちは職場から会場のホテルに向かうことになっている。

 上司は、上の方で銀次郎の学生対応が非常に問題になっているということを彼に告げた。その瞬間、福井産業技術大学教養学群専任講師(研究室4号館442 内線402)である坂本銀次郎の人生に流れている血のようなものが一気に凍った心地がした。銀次郎はこれまでと同じように、なるべく学生に単位をあげようと、授業に来ない学生やテストの成績が悪い学生に対しても温情を持って接してきた。そしてその態度は職場全体がとっている方針と同じ方向を指していると考えてきた。しかし問題はそこではなかった。上司は、先週にどのような学生と接してどのような態度を取ったか覚えていますか、と彼に問うた。銀次郎は早苗に去られて荒れた感情の中で学生に投げた言葉のいくつかを、どろどろした液体の中から掬い上げるようにして思い出した。それは「仕事」としていかなる意味でも、なんともあり得ない、起こってはいけないことだっただろう。そう頭では分かっていても、銀次郎は、いや、たしかに言い過ぎたかもしれませんが、私は彼らに最後まで頑張って欲しかったのです、などと弁解した。

 その「最後」というのは、普通は期末試験ですよね、それで適正な成績を付けてあげるわけです、その後に学生の対応をしてあげるにしても、いや、してあげるからこそですね、言葉や態度には気をつけないと今回のようにあらぬトラブルが起こってしまうこともありますよねえ、などと上司にいたく優しく言われて、勝てない、と銀次郎は思った、仕事は、勝ち負けではなかった、いっぺん悪かったらずっと悪い、あとは防止策と反省を述べて自分のいた場所を静かに去らなければいけないのだ。

 上司が去ると、一人分ががらんと空いたその研究室に、関東の大学で出会ったサッカー部の男子学生が浮かんだ、まだ続くんですか、ぜったいオレのこと好きでしょ、と愚痴った学生だ、銀次郎はその言葉を、暇な時間の中に流れては消えていく他人たちの中から引き出せなかった、そう思ってはじめて、「引き出そうとしていた自分」が数パーセントでもいたことに気がつき、自分を辞めたくなるのだ。

 仕事は辞めることができるが、自分を辞めることはできなかった。

 銀次郎はにこにこしながら、あらかじめ決められた納涼会の座席に座った。円卓で、周りは皆50代か60代の同僚たちだった、昼間に叱責されたことは棚に上げて、とりあえずはここへ来た、そういう自分を厚かましく恥ずかしいと思うかは別にして、逃げるようにして帰って、早苗のいない広い家でまた一人になるよりはいいかもしれなかった。

 納涼会の会場は海に近いところにあって、普段は結婚式場に使われているが、ビアガーデン・ワインバーの宴会場として使われることもあった。ビュッフェスタイルで、銀次郎はたくさんの料理を腹に詰め込んだ、40歳のおじさんでも、他のおじさんからすれば若造であるから、それこそ盆休みに親戚に囲まれた少年のように、あれを食えこれを食えと同僚から促された、ケーキも食べたし、コーヒーも飲んで、ビールは三杯飲んだし、ハイボールを五杯おかわりして、隣に座っていた三浦さんが「あまり美味しくない」と言って寄越してきたカクテルみたいなグラスも空にした。年長の同僚たちは、三浦さんと銀次郎に「これからあなたたちに任せる仕事がたくさん増える」ということを鳴き声のように繰り返し言った、三浦さんは「でも給料は増えないのにね」と言って、これも決まりきった鳴き声みたいだった、職場の人たちが大勢集まっていて、皆、鳴き声のような言葉で過ごしていた。「上の方」が集まっている卓に職員たちが順番に挨拶に行っていて、これでは本当に結婚式のようだと思った。でも、それも、仕事だ。

 お開きになって、銀次郎は煙草をきつく根元まで吸ってトイレに向かった。小便がなかなか終わらないと感じた。隣の小便器に三浦さんが来て、あれ、坂本さん、大丈夫? と言われて初めて、腹に不快感があることに気がついた。二つある大便器がどちらも使われていて、慌てに慌てた銀次郎は咄嗟に外へ出た、結婚式場として使われている建物だから、そこへ端正に整えられている緑の庭にぶちまけるわけにはいかなかった、建物の裏側に急いで走って、もう自分の意思とは関係なく、制御できずに嘔吐してしまった、酒の強さには少し自信があったし、そもそもこのような事態は、いつも自分が教えている学生の時分にとっくに卒業していたはずだ、それなのに、咄嗟に手で口を覆ったのが良くなくて、そこから溢れ出して、顔や腕、ポロシャツ、ズボンをまんべんなく汚してしまった。

 拭けるものが何もなく、かといってこのまま会場に戻ったら異様な視線を受けるに違いない、仕事が他の人たちよりも多くなくて、さらには任されている数少ない仕事も上手くやることができないおじさんが、なぜか納涼会では張り切って食べ過ぎ、飲み過ぎて、「仕事」の宴会なのに、体中を汚している。

 銀次郎は帰りのバスが待っている会場の入り口の方ではなく、そのまま暗がりの中を歩き続けた、この建物は海に近いらしい、ずっと歩けば海にたどり着くのかもしれない、海に行けば顔や服を洗えるのかもしれないな。

 あふれたなあ、と銀次郎は思った、その瞬間に瞳から違うものが、情けなくて、またあふれてくるような、センチメンタルなことはなかったけれども、あふれていた。闇の広がる田舎道に自分があふれていた。もっと「仕事」に自分を当てはめていればそれでよかったのに、むしろそれが上手にできていると思っていたのに、自分があふれていた。気がつくと自分ばかりだった。平凡な男が営業車に乗っている、いつもと同じ街を同じようなハンドルの角度と腹の心地で巡っていく、あるときその見慣れた風景からいっときはみ出してみたくなる、そういうことは自分には許されない、銀次郎は仕事の途中に営業車で違う景色へ飛び出せるような自分ではないのだった、仕事の途中どころか、仕事が終わって、しかしまだ「仕事」ではあるのだが、皆が羽を伸ばす納涼会の終わりに、皆と一緒に駅まで帰れずに、ゲロまみれの自分をなんとかするためになぜか海を目指して歩く自分だけがいた。

 いくら歩いても、銀次郎は海にたどり着けなかった。明かりのついている大きな建物を見つけ、それは市民体育館のようだった、自販機で水を買い、口や服を洗った。駐車場の縁石に腰掛け、服が少し乾くまでじっとしていようと思った。やはり、風のない日だった。夜になっても暑さだけがまっすぐに体へ被さるような日で、だから吐き気も促されたのだ。体育館の中では、誰かが何らかのスポーツをしているのだろうが、足元の音が聞こえるだけで、大きさのあるボールが弾む音がしなかったから、きっとバドミントンをしているのだろうと思った、バドミントンは、室内でやるものだな、銀次郎は頭の中に行き交うシャトルの軌道を思い浮かべた、そう、バドミントンに向かない風の日なんてそもそもないのだから、このことを今回の防止策と反省にしっかりと活かせるだろう。そのあとで、暇な時間が、きっと終わりを告げる。そのもっとあとで、きっと何か違うものがあふれてくるに違いなかった。

 

ずっとここにいられたら

 ずっとここにいられたら。それはむりな話だ。だがしかし、そうたは寺岡のそでを握った。

 あれはコロナウイルスが流行り始めたころで、2020年、みんなマスクを付けていたころだったか、福井の「少年自然の家」が催しているサマーキャンプは、その年は取りやめになった、そのころがもっともあらゆるものごとが自粛されていた時期だ、それが2021年の春を迎えるとぼちぼち再開していった、すっかり忘れていても、ちょっと立ち止まればかならず誰でも思い出せるはずだ、寺岡たちはおそるおそる「少年自然の家」のイベントを開いていった、大柄なマスクを付けて野山を散策する子どもたちの姿を見てなんだか心が痛ましくなる、と思うほどそのときの寺岡は小さい人たちに共感的ではなかったが、「大人になるってたとえば、どういうことだと思いますか?」と自分に訊くに至ったそうたの肩は、持ちたくなった、つまりは、寺岡はそのとき、そんなこと考えなくていいよ、と言いたそうな顔をしていた。

 その年のサマーキャンプには、運営側の予想に反して、多くの申し込みが入った。コロナが流行していても、いや、しているからこそ、長期休み期間の子どもを持て余す家庭が多かったようだ。夏休みなんて、子どもたち同士で勝手に遊んでいればいいが、昼食を用意したり、何かが起きたときに世話をしてくれたのは、家にずっといた祖母だったな、と寺岡は思い出す、厄介払いとまでは言い過ぎだが、親が多少は一息つくために、福井の山間に25人くらいの児童が集まった、寺岡は、春から新しくスタッフになった竹村くんの陣頭指揮が、なんだか気になるのだった、行動ではなく、どちらかといえば言葉のほうである、大人になるころには、コロナはもう終わっていると思うよ、大人になれば、あの木の枝に止まっている蝉に手が届くよ、このかぶとむしは、君が大人になるまでは生きられないかもね、大人になっても、この夜空は変わらないんだよ、寺岡自身もべつに、かたい自信を持っているわけではなかったが、なんだかこの青年は、小さい人たちに対する話し方がしろうとさんではないだろうか、ワンパターンというか、自分で言葉を組み立てようとしないで、ちょっと易きに流れていないだろうか、竹村くんは、よく動いてくれているし、まあ、半年前まで学生だったわけだし、そもそも職員たちの子どもに対する接し方というのは、学校の先生たちに比べたらどだいしろうとさんなのだった、仕方ない面もある、だからこそ、ここで働く人間はそれぞれ自分なりのリズムやトーン、そしてピッチを独自に獲得しなければならない、生意気がすぎる子をどう御するか、調理や工作でぐずぐずしてしまう子をどう導くか、山道を淡々と歩いているときどんなふうに話しかけると喜ばれるか(子どもに合わせて漫画やゲームの話なんて口にしてはぜったいだめである、一年中森の中で暮らしているような、野生的な人物像をほのめかすとよい)、だから、竹村くんもそのうち小さい人たちとの話し方を調整し始めるのだろう、と、寺岡はそのように竹村くんを見ていた、竹村くん自身がまさにいま、子どもと大人のはざまに立っているのかもしれない、それはいいのだが、そうたという男子児童に「大人ってどんなもの?」と言わせるようにもよおさせたのが竹村くんのああいう口ぶりだとしたら、寺岡からしてみれば、それはちょっぴりわずらわしいことだったのである。

 寺岡はサマーキャンプに集まる子どもたちを枠に当てはめてとらえていく、たったの数日間で個々人というものをつかめるわけもなく、個々人というものを偶然的につかめることに仕事のきらめきを求めているわけでもなし、それを心中で反省したことはなかった、小学四年生のそうたは、はかせタイプだった。子どもたちの前でフリスビーを自在に投げはなち、食べられる葉っぱを指し示すことができ、流れる小川がどこからきてどこへゆくのか説くことができる寺岡という「ワイルドおじさん」は、いもりとやもりと「かなちょろ」の違いを正確に言うことができなかったのだった、そして森のレクリエーション地帯からキャンプ広場への帰り道、そうたのマスク越しの演説を寺岡はえんえん聞くことになったのだった、目の前の年長者はなんでも知っているわけではない、という姿は小さいひとに、大きいひとの思うほど幻滅的な印象を与えないものだ、むしろ、そこに空いた穴に群がれと言わんばかりに、小さい人は大きい人の知らないことをよろこんで吹き込んであげようとするのである。夜に、恒例のキャンプファイヤーをした、日中に集合して顔合わせし、このくらいの時間には友達の輪ができているものだ、そうたはひとりで寺岡のそばにいた、はかせタイプのパターン通りである、周囲に知識にひけらかして敬遠されてしまったり(ひけらかす、というより、あふれだしてそれをすくえない)、独自路線で虫やきのこを追い求めたりするので、いつのまにかひとりになっているわけだ。そのときに例の質問があった。寺岡はここさいきんの朝の情報番組を思い出して、この夏必見のお出かけ特集、耳寄りレジャー特集の画面が思い起こされた、遊園地に、プールでも博物館でも天文台でも、寺岡はなんとなくそこへ行く側ではなく迎える側として番組を見た、みな、同業者なのだなと思ったのだった、そこで寺岡の口から出たのはこうだった。ああ、楽しいな、心地いいな、ずっとここにいられたらな、って思うことがあるだろ、大人っていうのは、ずっとそこにいるわけで、「ずっとここにいられたらな」って思ってくれる人たちを次から次へ、まいにち、迎えて、また見送っているわけだ。

 質問された瞬間は少し面倒くさかったのは事実だけれども、言葉をやってみると、ほか数名の若手職員とけんめいに炎を焚いている竹村くんに対して、寺岡は少しだけ得意だった、なぜなら、独自に獲得した自分なりのリズムやトーン、そしてピッチが、キャンプファイヤーのように育っているのが自分でわかるからだった、このようにして組み立てるわけです、しかし、それが子どもにも気持ちよく響くかはまったくべつの問題なのだ、「そうたくんもいま、みんなで火を囲って、ああ、ずっとここにいられたらなあって、思うでしょう、でもあした、帰るでしょう、おじさんはずっとここにいるわけでね」そうたは足元の草を抜きながら、「うん、帰りたくなってきた、やりかけのマイクラがあるんです」と言った、ふたりの会話はあべこべだったわけだ。

 

 月日が経って、あべこべだったそういうやりとりが、なんだか整ってくると、寺岡は実感した、「自分なりのリズムやトーン、ピッチ」というものは幻想だった、とまでは言わないが、他人なくしては立ち上がらないという、あたりまえのことを悟る、キャンプファイヤーもひとりでは起こせない、育てられないわけで。自分がなにかを育てていると自覚できない時代とは、自分自身が育っている時代だった、高校一年生の夏に寺岡は、父親に向かってアルバイトがしたいと申し出た、そのときは山や森ではなくて海だった、金沢の叔父が面倒をみているという海の家へ小僧に出された、金沢駅から電車で25分ほどのなにもない町だった、すぐそこに海岸線が走っているということを町中のぜんたいで隠していると思うくらいに、駅の周りはただの田舎っぽい住宅地だった、しかし駅から10分も歩けば、道に並ぶ樹の種類や風の調子がかわってきて、ほんの小さなトンネルが見えてきたら、その向こうは北陸地方でも有数の青である、遊泳区域はとても狭く、文字通りの海遊びというか水遊びを、ほんのつかのま楽しむだけの空間だった、16歳の寺岡はそのとき、海の家にあいさつする前にまずひと泳ぎしようとして、水へ駆けた、そして区切りの綱までそのまま泳ぐでなく駆けられるのである、いちばん奥まで行っても深さは胸元より少し下という具合だった、全国でも珍しいくらいの小さな遊泳場なのだ、寺岡は、区切りの綱を越えてテトラポットまで泳ごうとした、あるところまで行って振り返ると自分がアルバイトをする建物が遠くに見えた、白く丸い屋根がかもめの顔のように塗られていた、そのとき日焼けした兄さんが海辺に現れたことに気がついた、あれは見張りの兄さんに違いなかった、寺岡はあわてて、見張り台に対し大迂回しながら砂浜にもどり、人に会う準備をした。

 海の家にはふたりのおばさんがいた。どちらもかっぷくがよく、しかし肌の色などに違いがあった、眼鏡をかけているほうは肌が白く、ぱんぱんに張った二の腕やふくらはぎは誰かに叩かれたあとのように赤くやけていた、ちぢれている髪を流していてハーフパンツにかならずソックスとスニーカーを合わせているというのが印象的だった、ここは海辺で、ほとんどの人がサンダル履きなのだ、彼女は高嶋さん、もうひとりは、そのワンピースからどんと突き出た体を見ると、英語の時間に日焼けした肌とはブラックではなくブロンズと言う、と教わったことが思い出されて、つまり十円玉みたいな色をした肌ということだ、名前はさちよさんと言った、黒い髪をひとつに縛って花のついたサンダルを履いていた、下ごしらえをしなさいとさちよさんに言われて、少年はキャベツや玉ねぎを少し切った、ほらこれだもの、人生ぜんぶ表してる、手を洗いなさい、と叱られて、そうした。調理場というところに取り付けられた蛇口から出る水は、勢いが荒っぽくて清々しいと感じた、汚い手で切った野菜をそのまま捨てるわけにはいかない、焼きそばを作ってみろとさちよさんに言われた、料理の経験がまったくなかった少年は、焼きそばの袋に書いてある通りに焼いたり蒸したりをしてみた、横から高嶋さんが口を出し、ここで特製のソースを、この棚にあるから、ここで肉を、大きさはこのくらいで、と、高嶋さんのリズムで彼に接してくれた。

 その夏、覚えたことは多くあり、覚える前にさちよさんにねちねちと叱られるのが常だった。高嶋さんはそれをやさしく見守るわけでもなく、ねちねちに加勢するでもなく、だからこそ寺岡にとって非常に存在感があった、高嶋さんも、さちよさんも、いつも薄着であり、汗を肌にぬらぬらとひろげていて、寺岡たち三人はそういう、布や肌で、狭い小屋のなかで、会話というものをしているようだった、実際の会話ときたら、忙しい時間帯には、注文の復唱と、さちよさんのひとりごとに近いねちねちと、高嶋さんの存在感である、高嶋さんというのは、おそらくさちよさんよりは「あとに来たひと」で、指図する役というよりは助けるひとだった、なんだかそこにいるだけ、ひとつ動くだけ、ふたつ待つだけでそれらが言葉になっているのである。さちよさんと寺岡はそれに応えるのだ、三人ともが「運び」もやれば「作り」もやった。

 寺岡の「教育係」のようなさちよさん(つまり、高嶋さんが安直にその役割をしていなかったのがよかったといまになって思える、彼女はあくまでそこにいただけだった)は、もちろん、彼女なりのリズムやトーンで高校一年生の少年に言葉をやっていた、たとえば働いて二日目のあるときに、寺岡はひとつのお盆にふた皿の焼きそばをやや詰めるようにして乗せて、外のテント席にいるお客さんに持っていこうとしたら、その危なっかしい姿をさちよさんに見られて、「それで持っていけそうならそうしろ、持っていけそうなら、そうしろ、そうなら、持っていけなさそうならやり直し、なさそうなら、でしょ、あーあ、ぜんぶやり直し、宇宙、焼きそば、人生ぜんぶ表してる」これをものすごい早口で言うのである、人生ぜんぶ表してる、これはさちよさんがねちねち言葉をやるときのくせだった、さちよさんの言葉がそこまで辿りついてしまうと、寺岡はなんとも、叱られているというよりはいじめられたような気がするのだった、しかし、なぜか気持ちよくもあった、ねちねちのなかでその句のトーンというものがさっぱりとしていたのだった。

 それでもさちよさんはだんだんと寺岡をほめ始めた、それもまた彼女なりのリズムだった、ソフトクリームが立っとるわ、ビールの泡が立っとるわ、それはさちよさんなりに寺岡の仕事を評価しようとする言葉であるようだ、そういうときには「人生ぜんぶ表してる」とは付けないのだろうか、と彼は思った。あそこたたすなよ、そういう軽口もときにさちよさんから飛び出した、すごい早口で言うのである、まいにち、たくさんの水着姿の女性を目にした、少年は彼女たちと、おばさんふたりと日中交わしているような肌と布の会話というものをできそうになく、よく見てみればどれも同じ素材のとても薄い布、わりと自分でも同じものを持っていそうな(それが厄介だ)清らかでやわらかい肌がただそこに存在しているだけなのに、なにかとてつもない恥ずかしさのようなものが彼を遠ざけるのだった。高嶋さんが、寺岡に小言を置くさちよさんを尻目に、マリラマリラ……、となごやかにつぶやいたことがあった、寺岡はそれを、高嶋さんという存在から漏れ出た動作音のように聞いたが、あとから『赤毛のアン』に出てくるおばさんのことだと知った、『赤毛のアン』はさちよさんと高嶋さんくらいの年代ならみな好きな本かアニメだったから、さちよさんは高嶋さんの声を聞いて意図を承知したらしく、ばっかでい、とつぶやいた。マリラはアンを自分の家に引き取ることになるが、さいしょはアンの性格や言動になじめず、またそれを認めずに、彼女につっけんどんな態度を取るのであった、しかし、そのうちにマリラはアンのことを愛し始め、ふたりの間には血のつながった家族以上のきずなが結ばれていくのだった。

 あとからそういうことを、寺岡は本で読んで知った、たしかにさちよさんはマリラのようにだんだんとやさしくなっていった、しかしあのころの少年と少女アンとのあいだには大きな違いもあった、マリラがアンに辟易し、またのちに愛するようになるのはアンのとりとめもない多弁さだった、逆に寺岡は、ふたりのおばさんに対してとくにおしゃべりというわけではなかった、かたく口を閉ざしていたわけでもなかったがまあ、おばさんとたくさんの話題を共有しようとする16歳の男の子もあまりいないだろう。アンがその日起こったことについて言葉を尽くして楽しくマリラに話して聞かせるのとは対照的に、寺岡はさちよさんにただ自分の静かな姿を見せていたのだった、静かな姿とは、動いていないという意味ではなく、彼は自分の泳ぐ姿をまいにちさちよさんに見せていたのだった。17時になると、まだ日はじゅうぶんに照っているが遊泳場が終わりになる、見張りの兄さんが帰って、海の家の片付けを堂々とあとまわしにして、寺岡は区切りの綱の向こうへ行って泳ぐのだった。大人になった寺岡は考えるのだが、こういうところが子どもと大人のはざまに立っているひとのもっとも不可解な面で、きっとそのときの少年は、悪いとか、叱られるとか、さぼっているとか、また逆に、これは権利なんだとか、休憩とか、なんとなく反抗してやるとか、なんにも思っていないのである、彼は初日からそうした、すると向こうに、「かもめハウス」に、その日の朝と違って見張りの兄さんではなくさちよさんが見えた、おそらく彼女のほうにもなんらかの感情はなかった、さちよさんはブロンズの肌と布を旗のようにして、少年にとってのなんらかの目印になった、実質的に思い返してみれば、預かっている子どもが夕方の海でひとり勝手に泳いで溺れでもしたら一大事だと、彼女は見守っていたのかもしれない、それはいまとなってみればなにもわからない、寺岡はアルバイトが終わったあと、さちよさんにただ自分の静かな姿を見せていた、そして、さちよさんもそれを見ていた、たっぷりと距離があり、日中はたくさんの肌と布と汗による会話や叱責があったが、ふたりとも言葉をやっていなかった。海から戻ってきて、客のいなくなったテーブルの上に冷たい麦茶が置いてあるときがある、少年は、ずっとこんなふうでいられたらなと思う。

 ある日に寺岡を見守っていたのはさちよさんではなく高嶋さんだったが、さちよさんは寺岡が長くて15分くらいの水泳を終えて岸に近づいていくと店へ引っ込むのに対し、高嶋さんは石段の上で足をぶら下げながらそこでずっと座っていた。体が乾くまでと思って寺岡が隣に座ると、マリラは今日はいそがしい……、そんなことを横早歩きの蟹の足音みたいにつぶやくのである、高嶋さんはさちよさんが寺岡について語っていたところを、語り直した。ちょうど海辺から駐車場までの人気がないときに、ひとりの女のひとが熱中症かなにかでうずくまっていた、そこにたまたま、海の家の外に出ていた寺岡が通りかかった、彼は女のひとを見た、それをさちよさんは見ていた、女のひとはうずくまっていてどうやら、目も閉じているようだった(視界が閉じていた)、寺岡は「大丈夫ですか」も言わずに、彼女のまわりをぐるり、というか、ぐにゃり、という感じで歩く、女のひとはまだ水着のままだった、大丈夫ですか、とまず一声かければよかった、寺岡の手がなだらかな肩に伸びる、自分の指先にある爪の、扁平さに気づいて彼は、なぜかそれを引っ込めてしまうのだ、それをさちよさんは見ていた、もういちど手を伸ばしてみる、泳いでいるのだ、その手が、海水しかいだくことのできない16歳の太く赤くて頼もしい腕が、女のからだのぜんたいと部分を試そうと惑っているのだった、やがて寺岡は目を使うことをやめる、使いすぎることをやめた、そのからだから目をそむけると、岸のほうから若者たちがやって来た、彼女の友人たちのようだ、そこで寺岡は彼らに、もし具合悪かったらあそこの海の家でいくらでも休んでいってくださいと伝えて、その場を去り、この数分間、いやもしかするとたった数十秒間をおしまいにしたのだった、それをさちよさんは見ていた、と、高嶋さんは彼女なりのリズムやトーン、そしてピッチで寺岡に言った。

 たまらない気持ちがせっかく乾いてきた肉体を濡らした。「人生ぜんぶ表してる」。

 しかし、高嶋さんが言うには、さちよさんはそういう少年の姿を見ていらい、彼のことが少し好きになってきたらしい。ちょっとじっと見すぎたんだ、ともマリラは言っていた、と高嶋さんは言った。

 

 終わり方は、簡潔で、よく覚えている。大事に覚えてきたことがなんだか抜けてしまって、高嶋さんと話をした次の日に、寺岡はひとつのお盆の上にビールやうどんやかき氷を乗せた、お客さんの膝上でそれを崩してしまい、さちよさんはねっちゃりびっちょりいかった、寺岡はお客さんに謝り倒し、あとからさちよさんに謝り倒した、しかし、さちよさんが例の「人生ぜんぶ表してる」を口にするやいなや、寺岡はそれまでの従順さをうっちゃったように、冷たく強く、反駁の言葉をやった。さちよさんの全人生を否定する勢いでやったのだ。さちよさんもまた、いままで寺岡が見たことのない、どんな表情にでもなる、どんな表情にもならない、そんな顔をした、これは、やってはいけないことだったのだ。寺岡はマリラを殺した。

 夕方、寺岡は泳がなかった。彼は、さちよさんか高嶋さんがいつも帳簿を付けている、ノートパソコンや文房具が置いてある小さな部屋の前に行った。改めて謝ろうとしたのか、アルバイトをもう辞めるといったようなことを言おうとしたのか、もういまの寺岡は思い出せない、しかし、そのとき耳にしたことははっきり覚えている、調理場ではあんなにも存在だけで言葉になっている高嶋さんが、じつに気弱な声で「できればずっとここにいさせてほしいのですが」とさちよさんに言っている、さちよさんはどうやら、少年に向けるねちねちとはまったく異なる方向性のトーンで、それを退けている。16歳の少年は、ふたりのおばさんにある明確な上下関係というものをほとんど意識していなかった、することができなかった、高嶋さんという女性の人生をぜんぶ表している何かが、少年のなかで、よくわからないなりに迫ってきた。

 

 少年はその日、ふたりのおばさんを傷つけてしまったと感じた。その実感が終わり方として簡潔だった、高嶋さんには何も言葉をやっていないのに、ふしぎだった。もともとそのとき、少年のアルバイトはあと3日を残すだけだった、その3日は、海を泳がなかった、さちよさんに自分の静かな姿を見せなかった、その3日、高嶋さんは海の家に来なくなった、「シフトが入っていなかった」だけかもしれないが、高嶋さんとの別れはあのとき聞いた声だけだった、調理場ではあんなにも存在だけで言葉になっていた高嶋さんだったのに。代わりに仕事のできなさそうな大学生の男が来た、「仕事ができなさそう」と他人に言えるほど、少年はそのひと夏で仕事ができるようになったのだった。

 そうした話を、寺岡は、高校一年生になったそうたに語るのだった。そうたはボランティアでサマーキャンプの手伝いに来ていた。あの日と同じように、キャンプファイヤーが燃えている。月日が経って、あべこべだった寺岡とそうたのやりとりが、なんだか整ってくると寺岡は、自分もさちよさんや高嶋さんの歳に近づいてきたかと思う。そうたは、まいとし炎の前で耳にする寺岡の昔話が好きだと伝えた、ずっとここにいられたら、ずっとここで寺岡さんの話が聞けたら……、「しかしね」寺岡は言うのだった、「君に語っていても一方的に自分だけが語っている気がしないな」そうたが暗い中で彼を見た、「君に見られていると、私の語る顔を見ている君の目を見ていると、自分の話をしているようでも、君の話をしているような気がしてくる。」

 おれもそうです、とそうたは言った。 

 コロナの流行という一幕があってから、キャンプファイヤーを囲んでいろんな定番の歌を踊ったり歌ったりするという文化がなくなった、少なくとも寺岡の勤務先ではそうだ、みんな、火のゆらめきのようにざわざわとおしゃべりしながらそこに座っているだけだ、それでもじゅうぶん楽しいようだ、まいとし「燃えろよ燃えろ」や「遠き山に日は落ちて」「マイムマイム」は大きな野外用ステレオからだらだらと流しているものの、さいきんの児童たちはそれらが「歌うもの」や「踊るもの」とは認識しないらしい。キャンプファイヤーの前でハンドマイクを持った竹村くんは、自分たちが子どものころは火を見れば落ち着くのではなく「コーフン」して、みんなで二重三重の輪になって手をつないで、曲に合わせて踊りまくっていたと演説した。子どもたちは口々に、「うそっ、イメージできない」と好い反応をした、竹村くんもあれから成長したのだった、「みんなもやってみようか〜」子どもたちのざわざわを聞いて、「なんてね」この間の取り方なんて本職の先生なみではないか。

 ハンドマイクが竹村くんから寺岡へおもむろに渡された。彼はとまどったが、数年前、小学生のそうたに、そでを握られたことを思い出していた、いもりについて熱く講義したかった彼の、ソーシャルディスタンスという言葉が喧伝されていたころの遠慮、心くばりだったのだ。

 寺岡はしゃべった。みんなでじっと火を見ていて、それも、楽しいですね、今日、友達になった隣のひと、まあ、友達じゃなくても、そのひとの、肩に手を置いてみたり、背中をさわってみたり、勇気があるひとは、許可をとって手を握ってみてください。やだあっていうひとは、ぜんぜんむりしなくていいよ。

 子どもたちは、今日名前を知った、自分と違う小学校に通うその子を、さわったり、それをためらったりして、それ自体が、ずっとここにはいられないあかしだった。寺岡は個々人のリズムの表れを、静かに見ていた。

 

 

情熱

 

 

 なんで野球部の応援だけ全校で行くん、と教室の誰かが陰口でもないふうに言って、三日後に地区予選の初戦を迎える坊主頭たちは、そんなこと知ったこっちゃない様子で白いポロシャツと黒い腕のコントラストを他の生徒たちに見せつけている、ように見えるだろうが、おれはまったくその通りだと思うよ、というか坊主頭っておれだけだった、というかおれは吹奏楽部だったわ。

 家に、だいぶ年の離れた兄貴の卒業アルバムがあって、それは中学校のものだが、そのころは野球部じゃなくても男子は全員坊主頭で、女子は全員おかっぱ頭だった、肩に髪が届いている人なんてひとりもいない。ちょっと年の離れた姉貴のころは、野球部だったらみんな坊主だったって、おれの学校、おれの年代だったらべつにそうじゃない、短髪ならともかく五分刈りって学校におれだけだ、道を歩いている猫のふわふわを触るみたいにどいつもこいつも、おれのじょりじょりを触りに来るってわけだった。

 おーい、ごりえきだぞ、と言ってショートの村田とセカンドの山下が他の野球部の連中を、突っ伏して寝ているふりをしているおれの元へ呼んだ、ごりやくって言うんだよそれは。どうでもいいさ、べたべた触られても意に介さないおれの寝たふりが、野球部のやつらにウケてる、こんなことでウケても仕方ないんだ、がばりとおおげさに起き上がってみせると、やっこさんたち、なんだよシラけてしまうな、という様子だった、もっとシラけるべき瞬間というものが人生にはあるはずだ。

 吹奏楽部は野球部の試合についていって応援の演奏をする、頭を丸めたら応援団の男に、おう、気合い入ってるなと言われたけどこれは気合いじゃない、まるで気が抜けてるんだ、どうして毎朝そんなに髪をびしりとセットして登校できるのかおれにはわからないよ、おれが坊主にした理由は、強いて言えばみっちゃんへの誠意だった、先生たちは、何か悪いことでもしたのかいって話しかけてくれるが、そういうこともないんだ、悪いことなんか考えたこともなかった、悪について考えることはよくある、みっちゃんが学校に来られなくなった原因は、名前のある誰かが考えた悪いことのせいではなくて、誰かと誰かのあいだにある、名前のないところから出てきた悪だろう。

 そういうことを共に議論していけるだろうか、と思える人間は世界史の大山先生だ、なぜなら先生は権力ってものをおれに教えてくれた、これって高校じゃなくて大学とかで習うものらしい、たとえば、部活の顧問が部員にむちゃな練習させるとか暴力をふるったりするというのは狭い意味での権力でしかないって、権力はぜったいに見えないし誰かの「立場」や「性格」に収まっているものではないのだけれど、見えないからこそ権力は権力として働くのだ、ってそれ、おれが考えている、みっちゃんに対する悪と同じだった。社会科準備室に遊びに行ったら大山先生がおれの頭を見て、すっきりしたな、と言った、髪の毛くらいしかすっきりできるものがないから困ってる、さておれは、なんとなく兄貴の卒業アルバムの話をした、若い大山先生からすれば、少し上の世代の話ということになるか、おれは、「おれはこういう時代のほうがいろいろとすっきりしていていいな」と訴えた。大山先生は「私はそうは思わない」と、重い扉をなんなく押し開けているような調子で言った。

 おれはおれなりに、おれに見えている先生とは違う世界からものを言おうとしたが、それはなかなかむずかしい、大人が相手だとごまかしが効かないからだ、大人というか、知識を持っている人に対して、自分のいつも歩いている道を描いた風景画にどういう絵の具や筆が使われているかとか、絵のどのへんに色のかさぶたができているのか説明するのは面倒というか、なんというか。とにかくおれの見方では、人間というのはいつからか知識を身につけている人といつまでも風景画を背負っている人に分かれる。

 だからおれもそのうち、そっち側の人間になるのかな。

 その日の午後の世界史では、大山先生が第二次世界大戦のときのドイツの話をした、資料集に頭を丸めた人たちが連行されていく写真が載っていた、こうして見ていても見えてこないおれにとって違う世界だ、そういうことを正直に伝えていたら先生はおれのことを気に入ってくれたようだった、「知識」というのは分からないものだ。

 そっち側とこっち側に分ける、分けるというのは砂と石を分けるようなもので意味も終わりも方法も何もない、ただそれでは終わらない、終わりがないから終わらない、当たり前のような話に聞こえるけどじゃあ「終わりにする」となれば必ず考え方に工夫が要る、石のほうが大きくて目立つので取っておくか捨ててしまおう、あるいは砂に適当に色をつけてその中でさらに選り分けた、そういうことが行われていたって先生は言っていた、いまでも行われているという言葉が付け足される、だから先生が教えていることは歴史じゃなくて理論だ、それも先生が付け足した。理論という響きにはとても知識があった。

 おれはみっちゃんみたいに歴史ってものを知らない、しかしみっちゃんは地理選択だったな、いや、そんなことは関係ない知識の話だ、みっちゃんは自分の知識でおれたちの日常的な世界に抗おうとしていた、生徒会執行部員が正門の前で「あいさつ活動」している隣、みっちゃんはパレスチナの反戦を訴えていたんだ、去年の夏から秋のことさ、ということはみっちゃんはイスラエルに抗っていたということだ、まあ、そのくらいならおれにも分かる、ところがみっちゃんが学校からいなくなってからのおれの実感ときたらどうだ、みっちゃんが抗っていたのはおれたちの日常的な世界じゃなかったか、もしくはみっちゃん自身の日常ということになろうか、「おれたち」の中にみっちゃんが入るかどうかはみっちゃん自身が決めてくれればいい、そういうことをしゃべる機会も今ではなくなってしまった。権力が権力という看板を下げてうろつかないように、「無関心」だって無関心というプラカードを掲げては歩かなかった。ともあれ、おれたちの目に見えていたのは生徒会の腕章とみっちゃんの自作した反戦ボードだ。

 たとえば、毎年応援に駆り出される吹奏楽部の面々というのは、態度に表さなくても野球部の試合に対して無関心だ、しかし中には、ちょっとだけしみでている人もいる。

 おれは部活の終わりに、野球部の男に振られてダウナーになっているトロンボーンのミユや、運動部全体にルサンチマンをいだいているらしいファゴットのヨシキに声をかけた。

 

 おれ、みっちゃんに謝りたいことがあったんだが、それを言えないでいる。みっちゃんは二年生の冬から学校に来なくなってしまったのだ、もとから授業をサボりがちだったから最初は気にしていなかったんだが、気がつくと一週間、二週間と学校にいないままだった。みっちゃんのことだから、何か危険な橋でも渡って停学処分をくらってるのかもしれない、かと思うと、みっちゃん自身が自主的に学校から遠ざかっているというのが定説となっていた、みっちゃんは学校の風紀を乱すことをしたために、このままでは卒業させないと脅されているといううわさがあった、イスラエルと繋がっているアメリカの大学の話ではあるまいし、そんなことあるか、と、おれは思うのだけれど、国際ニュースに詳しい同級生がそういう作り話を撒いたのかもしれない。おれは大山先生にあれこれ訊ねてみるが、機密条項めいたものがあるらしく、うんともすんとも言わない、思い返してみれば、大山先生はみっちゃんのしたことを褒めもしなければ責めもしなかった、めちゃくちゃ権力を感じたけど、そうであるならばこそ、先生の胸ぐらをつかんだって仕方がない。しかし、権力理論はおれたちに仕方ないって言わせるためにあるわけじゃないと思うが、きっとおれは知識不足だ。

 おれは帰り道、電車の車窓から見える真っ赤で埃っぽい町角の画を浴びて妄想する。がれきの街で血だらけになった死にかけの大山先生がおれに言うんだ、「知識はひとまずどうでもいい、生き延びるために知恵を身に付けるんだ、知識と知恵は違う」おれはそんなふうに考えて知識不足の自分を正当化するのさ、理論は知恵に含まれるだろう、理論って要するに方法だ、テントを組み立てる方法や連射銃を整備する方法とかと同じようなものだ、おれはいろんな理論を編み出して生き延びていこう。そしてもう一度爆撃が襲ってきて、大山先生はこときれるのだった。

 電車が地下道に入って、目の前におれの坊主頭とニキビ面が映った。たぶん現実だったら、死んでいるのはおれのほうだわ。

 というかおれは、爆撃するほうだったわ。

 ほんとうにそうかもしれないんだ、それくらいおれだって考えるさ。

 自分の町に降りて、みっちゃんの家を通りかかった、みっちゃんとは中三からの親友のつもりだった、おれ、みっちゃんから教えてもらえる漫画や音楽が楽しみで仕方ない、そのやりとりも最近はできないから、おれ、家でいっしょうけんめいショスタコーヴィッチの第5番を聴いているよ、みっちゃんから最後に貸してもらったCDだ、借りっぱなしになっているわけで、吹奏楽部に入っているくせに、やはり鑑賞としてのクラシック音楽は慣れないよ。そういうことをいつものように言っていればよかったんだ、おれは、反戦ボードを掲げているみっちゃんにある日、正門の前で言った、「みっちゃんの情熱がやばい」それからもう口をきいてくれないのだった。

 もちろん揶揄や冷笑、皮肉でもなければ、尊敬や賛美、憧憬というわけでもない、よく知らないことについて、表面的な活動だけを見て褒めるのはよくない、そのくらいはおれにも分かる、ふと口をついて出た言葉なのだ、とにかく、みっちゃんの気に障ったらしくて、もうみっちゃんはおれに口をきいてくれないのだ、みっちゃんが学校に来なくなったのはそれからまもなくだ、そのときからおれは、自分の口にした情熱という言葉を毎日突きつけられた、おれはおれで、自慢じゃないが、おれなりにいつでも情熱のある毎日だった、サブカル愛好家でおれくらいしか学校で話す相手のいないみっちゃんは、昔っからあんまりそうではないように見えていた、おれにそう見えていただけだ、みっちゃんに見えているおれとは違う世界が当然あったのだと、仲違いした現在ではそう思えた、あのとき反戦活動をしていたみっちゃんの姿は情熱的に目に映った、そう見えても口に出してはいけなかったのだ。帰宅したおれは自分の部屋で適当な大学ノートを開いた。「みっちゃんへ……

 おれはおれの情熱をよく振り返るようになった、十八歳の太く短い情熱だ、とはいえ色恋ざたに関してはからっきし、勉強だってパッとしない、やはりおれの情熱とは五歳から中三の夏まで血道をあげてやってきた野球だ、高校ではもうやめると周囲に言ったとき、あまりにも思い切りがよすぎないか、とよく言われたが、それもおれの情熱の結果だ。

 そう、あれは2022年6月20日の雲が低く垂れこんだ、誰も彼もが自信のなさそうな、濡れたティッシュの中身のような朝だった、おれはおもむろにキャプテンの田村の尻をつかんだ、強気になったもの勝ちだ、田村はおれの言葉を受け取ると、ああわかっているさ、という返事を肩パンチで伝えた、今日はホームグランドでの試合だった、もう少し大きく構えてもいいはずだ、無二の仲であるはずのセカンドの森谷とショートの中島、うちのチームの守備の要、今日は両者に会話がない、おれは間に入って相手チームの打者の性質を分析してみせた、引っ張れない球はおそらくお前の方に流してくるぞ、おれは地面に向かって言ったのだ、どっちだよ、と二人は笑ってくれた、さて、空を見上げると不透明な空の中に太陽の輪郭が見えるじゃないか、この太陽が数時間後に雲からすっぽりと抜け出て、おれたちの肉体を汗と血と涙でぐしょぐしょにするとは思いもよらなかったんだ、不透明といえば、あそこで佇んでいるのはうちのエース、ピッチャーの小田じゃないか、肩はあたたまっているのだろうか、そうだとしても心はかちこちになっているに違いない、おれは小田に相手の四番、県でも有名な大砲である村越の弱点を教えに行った、いいか、あいつは外角低めが苦手だ、だから外角の内側に攻めて低く入ったあとに高くするんだ、小田は笑いながらおれを軽く殴ったよ、どういうことだってね、あいつの好きなおれの冗談なんだ、うちの四番のほうはどうしていたかといえば、東海林はずっとスマホを見ているのだった、あいかわらず彼女とメールだ、その落ち着いた表情からすると今日も大いにバットを振ってくれるだろう、ちらりと目に入ったんだが、涙顔の絵文字をたくさん送っていたけどな、そんな姿を妬ましげに見ているのは三番サードの津田だった、おれは昨日、いつも隣で練習している女子ソフトボール部の一年が、野球部で誰がかっこいいかという話をしているのを耳にした、お前の名前も挙がっていたぞと伝えてやった、津田は発奮してグローブを磨き始めた、とてもいい調子だ、最強のナインだった、一回戦の相手が県大会出場常連の学校でも、おれたちは対等に張り合っていい試合ができると思っていた、もうすぐアップだ、そして相手チームもバスでこのグラウンドに来るだろう、おれはベンチの方へひるがえった、いままでおれたちを支えてくれた下級生の部員、その中でも体のこなし方に冴えがある福山と室と高濱がそこを温めてくれていた、先輩、今日は最後の集大成ですね、ばか、最後にはならないよ、先輩、期待してます、ああ、もちろんだ、お前ら、北中の奴らを見てちびるなよ、替えのパンツ持ってきたか、そして朝が過ぎ、両チーム整列だ、おれはスコア係、最強のナインって副キャプテンのおれを除いたこの9人のことだった、実力だから仕方がない、去年度県大会ベストエイト、強豪山形市立第二北中学校、相手に不足なし、が、しかし、2点、3点、2点とさくさく点を取られていった、おれは声が枯れるほど怒り、励まし、嘆き、また励ました、6回に入って監督の顔がとても穏やかになり、おれを含めたレギュラーではない三年生を順に代打に出していった、最後の思い出というわけだった、7回表 1対8 で迎えたこの場面、代打はおれ、ランナーはいないが起死回生のチャンス、一球見てワンスリー、振れ、どこかから聞こえたそれはおれたちの負け越してしまった情熱の声、鉄の音だ土の匂い、草の色に山の顔だ、血を噛め、三塁に向かって球が転がっていく、ただ走れ、鼻を啜れ、額を拭え、お母さん、毎日弁当ありがとう、風だ、お父さん、和菓子屋は継ぎません、汗だ、泥だらけになって、そこに存在したすべての若さに汚された一塁ベースに向かって飛び込む、巻き起こる土埃、いきおいドラマチック、余韻なく間髪入れず塁審が叫ぶ、風だ、戻ろう、ゆるやかな風だ、帰ろう、おれは気がつけば家路をたどっていた、昨日録画しておいた韓国のドラマを、夕食の支度前にお母さんが観ている、負けたよ、聞かれる前に言った、洗濯機にパンツ以外を放った、おれは縁側で洗濯が終わるのを待った、そして、黄金に光りかがやく初夏の午後五時の庭でおれは、ソックス、アンダーウェア、肌着のティーシャツ、ユニフォームを、干したのだった。

 

 そのあと、野球への情熱がひと段落したおれは、高校受験の勉強だけでは毎日が辛抱ならなかったので、クラスで浮いている雰囲気のみっちゃんに絡み出し、つげ義春とか電気グルーヴとか、これまでまったく知らなかった世界を教えてもらったのだった、同じ高校に進学することになり、部活は何をしようと相談したら、音楽をしたらいいと言われた、そしておれは吹奏楽部に入り、トランペットを始めることにした、女子が多くて経験者ばかりだった(初心者はおおかたそのうち幽霊部員になった)のは辛かったが、気がつけばまたおれは副部長になっていた。みっちゃん、おれは、気づいたよ、情熱ってこれだ。野球や吹奏楽そのものじゃない。みっちゃんに仲直りを乞おうと思って書いた手紙、その前段で上から下、表から裏まで埋まってしまった紙面、大学ノートから破りとった一片を机の灯りに透かしながらおれは言った。情熱って、情熱を込めてやっていたことを思い出して語ること、その勢いあまって、要点とは関係ないことを具体的に語ろうとすること、要点のないことがずらずらとつづくこと、変にこだわって詳細になろうとすること、そのくせあまり詳細でもなくて、ただ情熱だけがそこに残っていること、粘り強く省略しないこと、その息切れの痕跡も残っていること、自分の目に見えていたもの、体が感じていたことを丹念に描き出すこと、そのくせ自分の目に見えていなかったものも、傲慢に想像してみること、自分を含めた誰かが、そこにいたことを思い出してみること、自分がいなかったどこかで、誰かがしていたことやできなかったことまでを思い出してみること。

 そして、みっちゃん、世界で起こっていることは、たとえば戦争や虐殺は、こういう情熱をつぶすために行われているのではないだろうか。おれだって、それくらい分かるさ。みっちゃんはそれに抗うために正門の前に立っていた。これはみっちゃんを理解したいおれなりの理論だ、この世界で、おれが見ているようにしか理解できない世界で平均寿命まで生き延びたいおれの理論、見えない悪につぶされているみっちゃんに伝えてみたい知恵。

 しかし、おれ、情熱が原因でみっちゃんに絶交されているから、あれこれを言葉で伝えられないのだった。

 みっちゃんが学校に戻ってきても、きっとくだらなくてつまらないだろう、無関心も権力も見えない形でそこにあるだろう。悪から逃げることはできないだろう。

 ウケたりシラけたりする世界がそこにあるだろう、だからもっと違う世界に行かなくては、それくらいおれだって前から思っている、思っているんだよみっちゃん、みっちゃんが思っているよりおれだってきっといろいろ考えている、いつまでもウケたりシラけたりしていても仕方ない、トンマな踊りと短い動画ばっかり観ていても仕方がないのだ、だからと言って「知識」が簡単にすぐ頭の中に入るわけではないが、

 情熱は、ウケたりシラけたりすることといつでも無関係だった。これからもそうだろう。

 おれができることやしたいことは限られていた、気がつけばおれには情熱しかなかった、それでまた嫌われても仕方ないさ、この「仕方ない」は権力の作用ではなくて、目に見えている人間と人間のことだ、おれは久しぶりにみっちゃんの様子を見に行くのだ、全国高校野球選手権大会地区予選の始まる日、おれとみっちゃんが住む町の駅に、ミユやヨシキをはじめとした若干名の吹奏楽部が降りた。戦う人たちを励ますだけではなくて、戦いをやめさせようという人にも励ましは必要だ、というか、一方的な戦いをやめさせることも一つの戦いだったわ、おれだって、それくらい分かるさ、いや、「おれたち」だってそれくらい分かると思う。おれたち金管合奏団はめいめいの楽器を担ぎながらみっちゃんの家にとぼとぼ向かい、先頭のおれがインターホンを押した、みっちゃんのばあちゃんが、扉を開けてくれた、扉が静かに閉まる、階段を登るきしみと足音が聞こえる、まもなくして、それは爆撃ではない大きな音が鳴る。