まえがきはあとがき

 ここさいきんの日記(の多くはすでに現在非公開にしてしまったが)で何度か「金木犀の夜」という歌の話を書いていた。過去の日付のなかで、どんなふうに好きかそのうち書きたいと言っていて、町の金木犀もおそらくほとんど散ってしまったし、それを書いて、おそらく私の文章のなかに「金木犀の夜」が出てくるのはこれで最後だ。そうとは言ってもそんなに説明することはない。この歌が発表されたのは2018年で、他人と通話するときはとっくにみな、ラインを使っていたはずだ。「電話番号を思い出そうとしてみる」ことはほとんど私たちの生活から消えていたわけで、そもそもラインがないころだって電話番号やメールアドレスは「アドレス帳」に登録されていたのだから少し不思議に響く。でもこの気持ちは好感だ。この歌は、いちど別れて離れてしまった相手のことが、歌われる言葉の関心の中心にあるわけだが、一度データのなかから消してしまったそのひとの番号を思い出そうとしているのかな、なんて、頭のなかで「裏」のようなものを想像、させない、する必要がないところがいいところかな、と思う。「金木犀の夜」の歌詞は、個人的にはスープを取ったあとの鳥ガラのようなものであり、「物語」を感じたり「解釈」を投入する必要がなくて、今風に言えば全行がエモい、エモいということはこちらが何もしなくてもいいということではないかと思う。そういうふうに捉えれば、エモい創作物というのは、現代の全自動的なサーヴィスのひとつのようである。一番のサビの最後にある「忘れないで」という言葉が二番の最後には「忘れないよ」に変わることは、言ってみれば、チェア型マッサージ機の揉み玉の作動が肩から腰に移るのと同じなのかもしれない。いやいや......。好きな歌なのにあまり上手く言うことができない。要するに、マッサージ機に座っている人がマッサージ機に座っている自分を恥じている事態はほとんどないだろうということだ。

 「金木犀の夜」をよく聞いていたのは夏の時期だったが、秋になってほんとうに金木犀の季節になってからふと、そういえばフジファブリックに「赤黄色の金木犀」という歌があったな、と思って大きな音で聴いてみたらちょっと泣けた(誇張)。フジファブリックは中学生のころに例の春・夏・秋のシングルが出て、最初のメジャーアルバムが出て、そのあと冬の「銀河」が出て、そしてそれ以降はあまり追っていなかった。高校生になって、気が付いたら「若者のすべて」なんか出していて、そして私が浪人していた年に志村が亡くなった。この年にマイケルジャクソンも忌野清志郎も亡くなったことを覚えている。大学生になってからの記憶としては、親友と観に行った映画版『モテキ』の主題歌である「夜明けのBEAT」が懐かしく思い出される。とはいえ、映画を観に行くまでは自分のなかでフジファブリックは格下げされていた。フジファブリックはなにも悪くないのだが。大学に入ったころは、いわゆるメジャーな邦楽ロックからけっこう離れていた時期だし、(なんかこの人らちょっとダサいな、、)という部活の、部室に置いてあったノートに、志村の死を悼む文章が「感傷的」につらつら書いてあって、(ああなんかすべてダサいな、、)となってしまったのだ。あとそれから。なにより、離婚した妻にとっての神様が志村だった。亡くなってから好きになったらしいからほんとに神様みたいなもんだ。聖地巡礼ということで高円寺まで歩きで連れていかれたことがあった。そんなわけでフジファブリックは、有名な曲しか知らないが、若者時代にだいたいそばにあったのである。「赤黄色の金木犀」の、「期待外れな程 感傷的にはなりきれず」という行がおそらく、志村正彦の最大の自意識の表出だったのだろう。いっぽうで「だいたい夜はちょっと / 感傷的になって金木犀の香りを辿る」ことを切々と歌い始めること(そしてそこに固い説得力がある)が、じつに、私たち(以降)の世代の在り方だな、とつまらないことを考える。どちらが上、などとは考えないようにしたいが。ちなみに私は先に歌詞を引いたところでキーボードを叩きながら思ったのだが、「ちょっと」という句は「感傷的」から分離しておきたい。だいたい夜はちょっと......、よくわからないけど、まあ、もう、感傷的って言っちゃっても、いいかな、っていうのが私の感じる私の世代感(観)だ。だから私はそういうものに対して好悪はんぶんなのである。フジファブリックでもっとも好きな歌は「虹」だろうか。「言わなくてもいいことを言いたい」危うい主語の拡げ方だが、みんな志村の自意識が大好きだった。個人的には「若者のすべて」にはあまりそういう要素がないように思う。

 「みんな~が大好きだった」という言い方は『ドラゴンボールGT』の最終回みたいでちょっと笑ってしまう。言わなくてもいいことを言いたい。

 だんだん寒くなって......、ということで、居酒屋でひとりでお酒を飲んだあと、寒風が身に染みる時期になってしまった。テンション高めで退店しても、外を歩けば、はやく家に着きたい......、という気持ちで頭がいっぱいになってしまう。夏場はそんなことはないから、帰り道に踊ったり、ガードレールの上を歩いたり、階段を三段とばしで駆け上ったり、クマとすもうをとって友達になったり、道行く猫の後ろを追って小道具屋に辿り着き、じいさんたちの演奏で歌をうたったり、家の前でひっくり返っているセミを助けてあげたらゴキブリで笑ったりした。それから、飲んだ帰り道に小さなとかげを見つけたことがあった。七月のはじめころだったと思う。酔った頭で、捕まえてやる!と思い立ち、目をこらしながらとかげの行く先を追い、スーツ姿で何度もアスファルトにしゃがみこんだ。とかげはなかなかすばしこくて、私は15分くらい道路の真ん中をうろうろしていたと思う。両てのひらのなかにやっと小さな生き物をおさめることができて、私はちょくちょく手のなかのそれを眺めながら、残り数分間の帰路をたどった。

 家に帰ってから、実家から送られてきた海苔の空き缶にとかげをいれた。とりあえず水をあげて、冷凍庫で凍らせていたゼリーをいれてみた(私は夏場、凍らせた子ども用の小さなゼリーをよく食べる)。よく考えればわかることだが、とかげみたいな生き物は自分で小さな虫などを捕食する、肉食の生き物なのだ。私の家にとかげの餌になるようなものはなかった。ネットで調べてみると爬虫類専用のフードなどがあることがわかったが、私はそこまでしてとかげと共にいる気はなかった。べつにペットにしたいとか思っていたわけではなくて、単にとかげがかわいかったので、しばらく自分の支配圏において、明るい場所でぼんやり眺めたかっただけだ。エゴである。家に着いてひと段落つき、酔いが覚め始めたころに私はとかげを逃した。そのあと、ツイッターのスペースでいつも話しているような面子でおしゃべりし、その面子がログアウトしたあとも、まだ眠くないな、もうちょっと他人と話したいな、と思って深夜にスペースを開いた。ぐうぜん誰かが入ってきて、その人のことをよく知らなかったが、知らなかったゆえに私はとかげのことを話した。「勝手に道端でうろうろしていたとかげをしつこく追いかけ捕まえて、家に連れ帰ること自体がエゴだけど、私は「とかげ捕まえた!」などとツイッターに画像を投稿したりすることはしなかったのです、そうしたら自分が嫌いになると思ったから」、などと、滔々と独演会をした。自分で書き起こしてみると噴飯物だなこれは。しかも、じゃあ、そのエピソードじたいをいまこうやって書いている自分はどうなのか......、という問題も残るが、そのひととは、とかげとも、ほんとうにぐうぜんにそうやってすれ違っただけで、こんなふうに夏が去ったあとに思い出話をすることは何かとても短い本のあとがきを作っているような気になる。本文よりあとがきのほうが長い本もあるのだろう。

 本格的に夏が到来して、連日ありえないほど暑苦しく、そんな日の真ん中に私は下駄箱の下に海苔の缶を置きっぱなしにしていたことに気が付いた。缶のなかに入れた桃色のゼリーはカビが生えて真っ黒になっていた。

 

 あとがきという言葉で連想されるのはアメリカ文学研究者の八木敏雄先生だ。私が学部生のころに亡くなったので学会などでお会いしたことはない。先日、ちょっとした用事でひとの部屋に入ることがあり、机にナサニエルホーソンの『緋文字』が置いてあった。「あ、『緋文字』だ」と思ったけどそれを持ち主に向かって口にすることはなく、ただ、その文庫版は旧い新潮文庫版だったので私は、(岩波文庫のやつのほうがいいのにな)と思った。古典を翻訳することはきわめて重大な偉業だが、それが古典であるゆえに、翻訳はだいたいにおいて新しめのものがよい。19世紀のアメリカ文学の有名人は、まずエマソンとソロー、この人たちは小説家ではなく著述家、思想家。それからホイットマンとディキンソン、この人たちは詩人。そしてポーはあれこれと書いているが小説家としては短編が専門、そして純然たる小説家としてメルヴィルホーソン(と言いたいところだが晩年のメルヴィルは詩を書いていた)。八木先生は19世紀アメリカ文学の三大小説家の代表作の翻訳をすべて岩波文庫で出版している。学生時代、19世紀のアメリカ文学を読み始めるか、と思って50円で買った昔の翻訳の『白鯨』を読んだが、なにがなんだかさっぱりわからなかった。ただでさえなにがなんだかわからないことが売りの小説なのに文章自体がよくわからない(まあメルヴィルの原文だってだいたいそうか、彼はホーソンやポーと比べると英語に「凝り」というか「力み」みたいなものが遍在していてとても親しみを覚えるのだ)。だがそのあと、ちゃんと新刊書店さんで八木敏雄訳の現行『白鯨』を買い、その「ちゃんと読める!」という実感に感動した。『緋文字』もしかり、というわけである。

 八木先生は翻訳以外にも大量の研究実績があり、そのアプローチや内容は、なんだかとても好きである。着眼点やそれを述べていく文章になんというか「芸」があって、同時代の英米文学者のなかでもなんだか畏敬というより親しみを覚えるのだ。文学研究というものがきわめて先鋭的な学問になる前の「素朴で奥深いもの」に興味をいだいていたというか......。古い文学者のように「文学とは何か」「小説の魂、真髄とは何か」みたいな展開にほとんど(けっして)ならないのもいい。まあちょっとこのへんは単にブログの画面だけ開いていてもうまく書けないから止めよう。一度もお会いしたことがないのに「八木先生らしいなあ」と思う書きぶりや文章はいくつかあって、そのひとつは「これはまえがきであるがいちばん最後に書いたのでこれはあとがきでもある」みたいな一節だ。そういうことにとてもこだわっていた人なのである。ただこれは、「書くこと」の時間性にかかわる重大な話題のひとつであって、同様の観点を八木先生ときわめて親しくしていたらしい私の師匠や、その師匠の畏友、もしくは師でもあるショシャナ・フェルマンまでが同じように本の「前書き」や「後書き」で言及していたように記憶する。一般的な話をすれば、論文のようなものを書くときはイントロダクションは最後に書くものだと教わる。とはいえ、八木先生のこだわりはそのような一般論ともまた異なる様子があったはずだろう。

 ・・・とここまで書いてきたところで八木先生の本を手に取ってみたら、彼は「あとがきはふしぎなもんだ」と言っているだけだった。私の記憶が以上に挙げたような他の書き手とまざってしまったのかなあ。『アメリカン・ゴシックの水脈』という本の「あとがき」の最初の段落をちょっと抜き書きしてみよう。

「あとがき」とは奇妙な書き物のジャンルだ。「本書の意図するところは......」というように未来形では書けず、「本書の意図したところは......」というように過去形でしか書けない。しかも「意図」したことが過不足なく実現されるようなことは、人事にあっては稀有なことであるので、あまり颯爽とした物言いもできない。とはいえ、「もとより、浅学非才の筆者ゆえ、謬見・誤記のたぐいも多々あろうかと思われるが......」というような過度のへりくだりも禁物。もしそのとおりなら、出版などしなければよいのだから。しかし、むろん「あとがき」という書き物のジャンルにも、以上のような不便をおぎなってあまりある便利もある。当の書物が出版される運びになった由来や事情を、個人的な感慨もふくめて、「さきがき」でならできない一種の気安さをもって書くことができるばかりか、適度な弁明もできるし、そのつもりなら、あと知恵を付加することもできる。

どうです。面白いでしょう。それにもまして、なんだか人柄が伝わるね。会ったことのない私自身がそのように思ってしまうのだ。「あとがき」をひとつのジャンルとしてワンパラグラフ記述してしまうところに根っからの研究者らしさと芸がある。半世紀以上前の文学研究は、「(~~という)ジャンルとは何か」にとても拘っていたように思う。

 八木先生の言い方を借りるなら「あとに書いたもの」が「さきがき」(ほんとにかわいいことばづかい)に置かれることもあるわけで、フェルマンのとある本の冒頭には「あとから書いた序章」というサブタイトルが付いている、奇異な工夫ではなく、むしろそれが「書く」ということである。むしろ、私たちの生そのものがじつは、「あとから生じたものが先にくる」という事態をさまざまかたちで被り、または、自ら作り出していて、それを私たちに意識化させるひとつの営為が、読み書きなのかもしれない。そのことを、フェルマンは知悉していたはずだ。フェルマンが文学研究者でありつつ、であるゆえに、精神分析理論やtraumaの研究者でもあることは、言うまでもない。

 十月もおしまい。この前、とかげとはまた異なる小さな生き物のために一仕事をした。その生き物にとってそれは、先に書いたあとがきなのか、後から書いたまえがきなのか。君は人間ではないから、言葉が使えない。言葉に縛られ、操られる時間もない。でも人間のそれとは異なるかたちでも、時間そのものはかならずある。小さな生き物のなかに流れた時間を、エゴだとしても、私が私自身の声で何かを書いてきっとどこかに置く。この生き物のことを日記に書くのは、初めてだ。