『代わりに読む人0 創刊準備号』の感想

 私は文芸誌がけっこう好きだ。大学院生が使う研究棟に、サロンというか「図書室」みたいなところがあって、ここに98年から03年くらいの『文學界』や『新潮』がずらりと並んでいた。私は勉強に疲れると、ここに置かれたソファに身を沈めて雑誌をめくったものだった。雑誌の中では、今では大御所の風格をまとっているさまざまな作家が、新人として作品を発表したり、選評や批評を受けていた。『文藝』なんかは、時期ごとに紙面の感じがまるきり変わっていくのでとても面白い。保坂和志さんの言葉だったか、「文芸誌に載ってる小説なんか読まずに昔のものを読め」というのがある。ただ、そう言っている保坂さんと若き日の阿部和重さんの対談など、きわめて面白く何度も読み返した(『群像』)。また、新人賞の受賞作品などはやはり雑誌で読むと心地が違う気がする(いくら校正校閲が入っていても、ハイ、海から引き揚げたばかりですよ、みたいな感じが強い)。そんなわけで、私の中で文芸誌とはいわゆる「五大文芸誌」のことだった。だから『代わりに読む人』を手に取ったときは世界が広がったように思えた。これを気に入った(気に入っている)方は、きっと「こんなにいい雑誌、みんなまだ知らないの?自分が代わりに読んでおくよ」という気持ちになる(なっている)だろう。とある方の評言を借りれば、この本はとても「抜けがいい」。詳細は以下のURLをどうぞ。

 

www.kawariniyomuhito.com

 

 「図書室」からも「五大文芸誌」からもとっくに離れてしまっていた2022年の私は、ここまでの記事で書いてきた通り、音楽業界のように言ったら、インディーズ文芸のような領域で読み書きをした(ただし、二項対立を過度に強調したくはない、メジャーとインディーズの往還運動で熱を発することが必要だと考えている)。夏、友田とんさんの文筆活動は太田靖久さんの活動を通じてなんとなく知り始めていたが、今となっては、彼もまた太田さんと同じように「往還」により周囲を巻き込んで熱を起こしている(私にとって)重要人物であることがわかった。このあたりのお二人のスピリットについては、『ふたりのアフタースクール』をご参照いただきたい。

 友田とんさんの出版レーベル「代わりに読む人」が世に出した『代わりに読む人0 創刊準備号』は創刊号ではない。創刊準備号であって雑誌の特集は「準備」だ。私自身も今年の夏にひたすら「準備運動」をしているような感覚で暮らしていたため、この人を食ったようなコンセプトが一目で好きになった。新鮮な読書体験だった。「準備」をリハーサルのような言葉として考えてみると、「準備」とは本番の「代わり」である。本番の代わりである以上、「準備」は具体的な軌跡を残す。だから「準備」もひとつの形ある成果である。巻頭言には「『公園』を目指す」と書かれているが、その通りに、執筆陣みなが開けた場所で自由に体操しているような雰囲気が、五大文芸誌にはない特有のものを紙面に授けている。これは、ほぼ全ページにわたって展開されている佐貫絢郁さんの挿画にも表れているだろう。そもそも、「代わりに読む」というフレーズが私はとても好きで、わかしょ文庫さんに対しても同様のことを直感したのだが、「この人はきっと大事なことを知っているんだな」という気持ちを私は抱いたのだった。友田さんに直接お会いしたとき、はじめはおそらく接する人みなにしているかもしれないセールストーク(本内容の紹介)を興味深く拝聴したのだが、「私は、言葉は常に何かの代わりでしかない、と習ったことがあります」と口にしてみたら、友田さんは表情や肩の感じをまるきり変えて耳を立ててくれた。外国で言葉が通じたのと同じ感じがしてなんだかうれしかった。その節はありがとうございました。

 

 以下に掲載されている文章の感想などを短く書いていく。

 

二見さわや歌 / 「行商日記」

この文章には外界に対する独特の距離感があって、でも考えてみれば独特でもなんでもない(これはつまり平凡ではなく普遍性があるということです)、それをけれんみなくつっつっと言葉にできる二見さんの感性が固有なのだとおもった。

「私はお金を受け取る。その一部始終をへえーという顔つきでさっきの男性が見ている。ズボンに小さく穴が開いているけれど、なんか綺麗な人だなと思った。」

次の箇所は私のいちばん好きなところで、少し笑えるような感じもある。

「「本当に戻ってきたんですね」「当たり前でしょ」(そうかな。別にどちらでも何とも思わない)」

この男の人とのやりとりはぜんぶ面白い。

「「それ一箱何枚?」「8枚です」「食べ切れないかな?」「そんな食べなくていいです」」

こんな会話のあとに、いきなり(でもないか)父親の人生の話になっていく。

 

二見さんの文章もすごいが、これを巻頭に置く友田さんの編集力もすごい。文芸誌の巻頭には詩やイラストレーションが置かれることが多いけれど、確かにこの文章はそういったものの代わりになっていると思う。つらつらとつづいていつの間にか終わっているような日記だが、永久に読んでいられそうだった。私たちがこの雑誌に入っていく心の準備をする機会として絶好の配置だろう。

 

「時々ここでやっちゃダメって言われる。そのあとしばらくぼーっとしてしまう。私は本当の自分の気持ちを知っている。決まっているからダメ、はイヤなのだ」

 

伏見瞬 / 「準備の準備のために、あるいはなぜ私が「蓮實重彥論」を書くことになったか」

連載が楽しみだ。準備している各章のタイトルに「5、とにかく明るい蓮實重彥」とある。「蓮實の文章を読むと気分が明るくなる、という実感があって、それはなかなかに本質的なことな気がしていて、どうにか言葉にできないかと画策しています。」と説明されているが、同意する。掴んだものをぜひ読みたい。ちなみに私は、高山宏先生の文章も元気が出る。

 

田巻秀敏 / 『貨物船で太平洋を渡る』とそれからのこと

船乗りとして青年期を過ごした作家を研究しているからか、見過ごせなかった。航海の準備として船舶無線の訓練では「「DISTRESS(遭難)ボタン」を操作するシナリオ」もあったという。その作家の小説でもdistressという言葉は印象的に出てくる。精神的な状況も意味するので面白い言葉だ。田巻さんは、とても文章が端正であるように思った。事実の記録は端正につづると小説のようになるということがよくわかる。題に挙げられている本はいつか拝読してみたい。

 

近藤聡乃 / 「ただ暮らす」

「少しだけ準備中の気分でただ暮らす。」というステップは雑誌全体を貫いているように思った。9. 11のあと、アメリカはずっと何かの準備をしている。

 

橋本義武 / 「準備の学としての数学」

この人に何かを連載してほしいと思った。引用したいところは数多い。「半分開かれたものの準備は何だか楽しい。」

 

柿内正午 / 「会社員の準備」

「会社員」という立脚点があるからか、特集のなかでもじっくりゆっくりと跳び技なしで「準備」を考察しているように感じた。読み応え抜群。「プルーストを読む人」として頭に記憶されているが、この人のファンにもなりつつある。朝に顔を洗うかどうかということが話題のひとつして文章がすすんでいくが、まさに私は、とある理由で集団生活をしていた時期、顔を洗わない友人に接して驚いたときがある。

 

佐川恭一 / 「ア・リーン・アンド・イーヴル・モブ・オブ・ムーンカラード・ハウンズの大会」

英語をカタカナに写すとき、単語と単語の間にナカグロを入れて表記するという慣習がある。たとえば「イン・マイ・ライフ」や「ゲット・バック」だったらぜんぜんオーケーで、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」や「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」くらいから大丈夫かな…、となってきて、「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」とかはもうちょっとまずいのではないか、という気がする。この文章はそんな気まずさを書いているように思えた。ほとんど句読点なく進むこの書き物は、自分に合う新しい言葉の服を被りたがっているが、まだ叶わないのでその準備をしているようである。

佐川さんのファンからすれば「え?おまえもしかしてこの店初めてなの?肩の力抜けよ」と思われるかもしれませんが、ご笑覧ください。

 

 

かいつまんで感想を書いてきたが、書かなかったからといって響かなかったわけではない。ただ、読むと同時に感想も浮かんだのは以上の通り、といった具合だ。次の号が出るまでに、このブログかツイッターでなるべく多くの文章にふれたい。たとえば、発行者(編集長?)の友田とんさんの文章が雑誌の中に繰り返し出てくるが、どれもすべて面白かった。しっかりと雑誌を引き締めている。友田さんは23年の1月に単著を出すようなので、それも拝読して、そのうちに「友田とん特集」をここに書きたい。とりあえずは、お正月に『「百年の孤独」を代わりに読む』を開くのがたんたんたのしみである。