荒地と宝石

 「ODD ZINE」に参加した人たちの来歴や太田さんの文筆活動を追っていくうち、私は『代わりに読む人』という出版社(そして文芸誌の名前でもある)を知った。そこの第一刊行物が「ODD ZINE」にも寄稿していたわかしょ文庫さんの『うろん紀行』だ。私は『代わりに読む人』と『うろん紀行』を同時に購入し、ぱらぱらと読んですぐにこれらは素晴らしい本だと思った。この記事では、『うろん紀行』の感想を書いていく。

 『代わりに読む人』の発行人である友田とんさんもわかしょ文庫さんも、ツイッターにアドレスを載せているので、読んだ感想をダイレクトに伝えることもできた。しかしメールには題名と署名が必要だ。「題:【本、読みました】本文: 自分、いたがきって言います。あのぉ…」と突然メッセージを送られても困るだろうと思った。そこで本に挟まれていた「読者カード」を使うことにした。そういえばこういうものって生まれてから記入したことないなあと思ったからだ。「一読者」になりたかった。それから、送り先は大企業ではないので、メッセージは作り手にダイレクトに届くかもしれない。それは電子メールの「ダイレクトさ」よりもいい感じじゃないか、と思って投函をした。じっくりと読んだうえでの感想ではなく、パッと読んでガッと得たうれしさみたいなものを乱雑な字で(すいません)書き綴った。衝動か。そのあと、ちゃんとゆっくりと最後まで読んでいった。

 読者カードの紙面にも、ご本人にお会いしたときも、私から「歳が近くてうれしい。応援します」という言葉が出た。(あ、そう…)と不思議がらせたと思う。歳が近いからなにさ。むしろ読書や執筆ってそういうものを超えた繋がりですよね、と。ただ、個人的なブログという場に甘えて、解説というか、少し自分の話から始めたい。私は90年(平成2年)生まれで、ちょうど小学校に上がる時期と一般家庭にウィンドウズが普及する時期が重なった。私は小学4年生あたりから熱心にネットでテキストサイトを読んだりフラッシュ動画を観たりしていた。そしてそのうち自分も発信してみたいと思うようになる。おそらく私と年が近い人たちの一部は、「ネットで自分を表出すること」にとても敏感な意識を持っている。あなたは10代の初めから、たくさんの日記サービスやホームページ作成サービス、そしてSNSを渡り歩いてきたはずである。敏感な意識を持っているあなたは、後追いで「ネットで自分を表現すること」を覚えた同年代の人たちの日記や、文章や、あれこれを読んで、きっと唖然としたこともあったかもしれない。直裁に言ったらあまりにも傲慢になってしまうから多くは書けないが……、ときに、まるで荒地だったような印象が残っている。むきだしの言葉が絵文字とともに、岩のようにガラケーの荒い液晶の画面に転がっている。そしていつしか自分もその環境に順応したりしなかったり......(だってそれはそれで楽しいから)。ここで興味深いことがひとつある。私には歳の離れたきょうだいがいるのだが、彼らの卒業文集であったり修学旅行紀を読んでみると、文章力の基盤がまったく違う気がするのだな。なんだか、ちゃんと読める。理由は解明されないし、なにしろすべて私の主観ひとつで言っているだけだが、日本人の文章構成力はいま28-35歳くらいの人間を境目に、めちゃくちゃ落ちた、というか「違うもの」に変わってしまった気がする。大学で卒業論文を書いているときも、先生は「数年前から学生の文章が(悪い意味で)非常に変わった」と言っていた気がする。私自身も、子どものころから「きみの文章はまずいよ」と何度も言われ続けてきた(ので、苦労してきた[している])。大人になってからも、そこまで「まずいよ」とは言われなくても、「なんか変だよ」と言われることはけっこう頻繁にあって、世の中(この文脈で言えば上の世代の文章感(文章観))との剥離は感じている。やはり、搭載しているOSが旧世代から変わってしまったのかもしれない。この考え方は、高橋源一郎綿矢りさの文章を指した評言である。綿矢さんは84年生まれだからこの私の話の中では、私たちの世代は綿矢さんのOSからまた急激に変わってしまったということになる。私の目線で言えば彼女はむしろ「ちゃんと読める(ように書ける)」世代の最後なのだ。*1

 私がわかしょ文庫さんのことを好きなのは、この荒地をしっかりと通り抜けてきたような気がするからだ。*2 わかしょ文庫さんはその文章の妙味を友田とんさんに見出されて『うろん紀行』の連載を始めた。同じような世代的雰囲気を過ごしてきたかもしれないこの人は、いったいそれまでは、どこで文章の修行をしたのか、どんな「自己表出」の遍歴があるのか、ということが、その筆名も相まって、けっこう興味深く感じられたわけだった。さて、『うろん紀行』は「小説を読む物語」(帯文より)だ。小説……。私の周りがたまたまそうだっただけかもしれないけど、小説、誰も読まない。まるで荒地である。しかし、わかしょ文庫さんは小説を読み、どこかに移動し、掴み取ったものを自分のスタイルによって書くという、それで構成された本を上梓した。私は、「ここにちゃんとこういう人がいるんですよ」と、「なんであなたはそれをしないんですか」という気持ちになって、いま、これを書いているのかもしれない。しかし、「あなた」とは誰なのだろう。私か? または、うまく言えないが、そこにいなかった(いたかもしれない)同級生と会えたような気がした。

 読書カードに自分で書いたことでもうひとつ覚えているのが、「宝石箱みたいな本です」という言葉だ。私の先生が退職したときに本を作った(編集した)のだが、そのときその本を指して言ったことが耳に残っていた。先生は本の実質的な雰囲気や、自分にとってひとつの記念であるその本の思い入れを言語化したわけだが、私は本というのはなべて宝石箱のようだなと思ったりした。『うろん紀行』の丁寧で細やかな装丁、凛とした佇まいは、その中に色の異なるさまざまな物語を収めている。考えてみれば、その先生の本は「文学研究」の書物だが、「文学研究」も「小説を読む物語」の一種と言える。月並みな言い方だが、「読んで書いた物語」には元の物語とはまったく異なる光が備わる。ところで、さんたび登場する先生(の言葉)だが、先生は「本を出すということは選ばれし者のみが行える」といったことを確か言っていた気がする(もちろん先生はたくさん本を出している)。わかしょ文庫さんはしっかりと選ばれている。自分の未だ経験していない「自著を出す」という行為を夢想しながら、私は荒地から持ち帰ってきたかがやくものを、自分好みに並べ直しているわかしょ文庫さんをさらに夢想した。それは必ずしもるんるんとしたことではなく、指の皮膚が切れてしまうような出来事でもあるということは、この本の一編でも読んでみればわかる。

 

...で、その、具体的な内容にほとんど触れないままに長い文章になってしまったので、後編を近日中に書こうと思います。

 

*1 この段落に書いた内容はやはり自分にとってこの短文のなかでは収まらなかったテーマだったようで、2023年5月の文フリにおいて、平成生まれは「球を投げる力」も低かったという客観的事実(体育の時間にやらされる「体力テスト」のソフトボール投げのことである)も指摘しながら、同じような内容をフリーペーパーにして配布した。作家の大前粟生さん(92年生)が文學界2023年9月号の小特集にて、同イベントで販売した日記本への感想のみならずこのペーパーの内容に小さな言及をしており、感謝の念をいだく。

*2 この文章を読んだわかしょ文庫さんから後日「いや、自分はまだ荒地にいる」という応答があった。なにか墓穴を掘ってしまったような気がしたが、私も荒地にいる(いた)自分を見つめなければいけない、そもそも「荒地」ってなんでしょうね、という程度には考えこみ、この文章は削除されずにまだブログに残っている。だから、いやこの「だから」という順接の感覚は自分でもよくわからないが、わかしょ文庫さんのことが好きな理由もその後少しずつ変わっていっているとは思う。

 

 

わかしょ文庫『うろん紀行』の感想文「あなたの二階」(自信作です)

は、げんざいブログ非公開で、日記本『ロビン』に収録!