四十のメソポタミア

 さいきんいろいろと勉強することが楽しい。まあ、勉強することも仕事の一部のようなものだから、楽しくなくてもしなくてはいけません。

 『キリスト教でたどるアメリカ史』(森本あんり)という本を再読していたのだが面白い一節があった。アメリカという国の歴史のなかでキリスト教への信仰意識は繰り返し高まったり下火になってきたわけで、信仰の再びの高まりを英語ではリバイバルと言う。リバイバル上映といった使われ方しか日本では見られないが、revivalとはほんらい宗教的な言葉である。そして全国的な信仰復興現象を大覚醒と呼ぶ。最初の大覚醒は18世紀の初めに起こった。アメリカはもともとピューリタンたちが移り住んできたことが事の始まりであると歴史の授業で習うと思うが、最初は強い宗教意識に貫かれた集団も世代交代が進めばそれが衰えてくる。時と場を隔てた位置にいる自分にとって理解する甲斐があるなあと思うことは、単に時代が変わって物質的に豊かになってみんな神様を信じなくなっちゃった、というわけ、だけでもないという事情だ。当時のピューリタン社会の人間にとってその社会の「内側」にいるということは教会員であることを意味した。教会員になるためには回心体験の告白をしなければならない。回心は英語でconversionと言って、これは自分の心の態度を「ぐるっと」変えることなのだと大学院の授業で強調して教わったことをよく覚えている。聖書において、「ぐるっと」心の向きを変えた代表的なキャラクターはパウロである。語源的に言っても、この単語の動詞形であるconvertはcon[完全に]+vert[向きを変える]という成り立ちだから筋が通っている。私自身もひとにこの言葉を教えたときに「耳で聞いているとかいしんとは改心のことかと思われました」という反応をもらい、たしかに無理もない、と思った。非キリスト者にとってはなじみのない言葉であろう。ちなみに「革命」revolutionにはrevolverが入っているのだから、革命という行為にも「ぐるっと」という力動が含意されていることがわかる。これも他の先生から教わったことだ。revolveはre[反対に]+volve[転がる]という成り立ちである。さいきんアジアンカンフージェネレーションの「ワールドアパート」をよくspotifyで聴いているが、この歌のサビ前に「心の中に革命を」と歌われる。革命という語を通じて語られている何かを考察するときには何がどんな向きに転じた・転じるのかを押さえなければいけないようである。

 話を元に戻すと、ピューリタン社会で社会構成員になるためには公の場で回心告白をしなければいけないということだった。他人に向かって声を出すこと、ひとつの「自己説明」が共同体参入の条件になっていたという歴史的事実は私にとってとても興味深い。正直「興味深い」と書いて済ませられないほどである。私たちの世俗的な生活社会においても声を出すこと=自己説明は半ば必須・自然の営みとして捉えられているが、たとえば学校でみなに向かって「自己紹介」をするのはその学校という集団に組み込まれた「事後」である。ただ日本語の面白さを想うならば、私たちがふだん「告白」という言葉を用いる(その言葉が指す事柄を想像する)とき、それは愛の告白であることが多いだろうが、愛の告白はふつう恋人になる「事前」に行われるものである。つまり「告白」の事前性という点が興味深い。もしくは言語行為論*1 的な観点で言えば「告白」はまさに行為遂行的な発話の類型であり、発話自体にその事前事後の変化をもたらすことは根本から言って必然なのか。学校で先生が自己紹介ではなく「自己告白」をしましょう、と言ったら(現実的にはそんなこと誰もしたくないだろうが思考実験するとして)、みんなが愛の告白や罪の告白をし始めて、そのクラスの関係性は以前のものには戻らないだろうから、やはり告白には根本的な事前性がある。ともあれ、私たちは地球のどこに引っ越してもおそらく、市民権を得るために何かを告白する必要性は迫られないようになった。そのような時代に生きている。しかしまあ、回心告白は会社の面接や何かのオーディションのように捉えればいいだろうか。ちなみに上に書いたように「アメリカはもともとピューリタンたちが移り住んできた」ことに偽りはないが初期の植民はそうしたピューリタンたちによるものも含めてすべて株式会社によるものである。アメリカってもともと会社の事業に過ぎないわけよ。王様が会社にいろいろお任せしたから初期植民地は自由に発展したという面もあるわけね。

 

*1 人は言葉で何かを説明しているだけではなく言葉で事を為しているのだということを検討する理論。たとえば「名付け」や「約束」に関する発話は言葉で事を為していると言える。また、「これは赤色である」という一見事実説明的な発話も「(私は)これは赤色である(と判断する)」と捉えれば行為遂行的な発話になる。つまり「私は悪いことをしました」という告白もまた「私は悪いことをしました(と認めます)」と捉えれば、この「認める」という発話が非常に行為遂行的である。少なくとも発話した主体の内面に対しては。

 

 さて、その回心告白は世代がくだるほど有効ではなくなっていく。子の世代になるほど、「さまざまな留保付きの」教会員として社会に組み入れられたり、「以前よりもゆるい条件で」教会員としてみとめられたりということが当たり前になった。じゃあそもそも教会を中心とする社会やめない?という認識にはまだ完全には至らない。社会のなかに依然として「回心告白を経て教会員になった者が完全な社会構成員だ」という考えは親から子まで根深く、当時の人々は内面が「ぐるっと」するような激しい宗教体験をむしろ希求していたわけである。そういった世相を背景として最初の「大覚醒」が起きる。

 大覚醒の指導者となったのはジョナサン・エドワーズとジョージ・ホイットフィールドという人物だった(森本はエドワーズの専門家である)。『キリスト教でたどるアメリカ史』では後者について述べられている一節が面白かったので以下に引きたい。

 

若い頃俳優を志したこともある彼は、身振り手振りを交え、平易な言葉で雄弁に語りかけ、多くの聴衆を魅了した。ホイットフィールドは、同じ言葉を四〇回まで繰り返し、しかもその一回ごとに感動が高まるように語ることができた。ある日の観察によれば、彼は「メソポタミア」という一言の語調をほんの少し変えて繰り返すだけで、それ以外に何も話すことなく、全聴衆を涙と悲嘆にうち震わせたという。(p.59-60)

 

ほんとかよ!とつっこみたくなる。弁論や説教というよりも音楽や演劇に造詣が深い方ならばうなずけるものを感じるのかもしれないと思った。ちなみにキリスト教や聖書には甚だ浅学で、なぜに「メソポタミア」なのかは数分間ネットで調べた限りではピンとこなかった。この日記を読んだ方は退勤時や炊事中、入浴時や就寝前に語調の異なる「メソポタミア」を何個言えるか試してみてください。

 

メソポタミア

メソポタミア

メソポタミア

メソポタミア......

 

 去年の秋ごろ、唐突に「仮にも作家なら物を書く以外に一芸ぐらいできなきゃいけないんだ!」と、「そんなこと誰も思ってないよ」具合も甚だしいことを思い立ち、芸達者への道を志してミニドラの真似や「プライバシー保護のため音声をかえてあります」のやつなど十代のころにやっていたしょうもない一芸以前のものを暇すぎて練習していたことをふと思い出した。ミニドラ喜怒哀楽っていう持ちネタがあって、メソポタミア喜怒哀楽っていうかね......。ん~、死ぬほどどうでもいい。

 

またある時は、ドイツから移住してきたばかりで英語をまったく理解できない婦人が、彼の説教を聞いて感極まり、「人生でこれほど啓発されたことはない」と叫んだと伝えられている。こうした逸話は、リバイバリズムが当時植民地に流入してきた大量の移民を背景として興隆したことを示唆している。聞き慣れた聖書のメッセージは、新世界へと移住してきたばかりの大衆の不安な心に強い共感をもって響いたことであろう。

 

 先の引用につづく一節だが、ここまで目を動かしているころには読中それほど(ほんとかよ)とは思わなくなる。要するにホイットフィールドの説教がもはや音楽だったのだろう。ちなみにアメリカ文学の代表作である『緋文字』に登場する主要人物の牧師もその説教が音楽的であると強調されている。アメリカ(18世紀の前半なので正確には「アメリカ」という集合的な自意識は無い)はかつて、相手に通じる言葉を用いて主体的にはっきりと信仰告白をすることでようやくその共同体に参加できる社会だったが、「大覚醒」期にはかならずしも相手に通じるわけではない言葉(つまり音楽)を届けることでほんらい自分たちと異なる存在を内へ包み込んでいく社会になっていったようだ。また、引用にあるように言語は異なっても「聖書のメッセージ」は共通であるから、英語に不慣れであっても(きっとこういうことを言っているのだ!)という思いはむしろ感動を倍加させるのではないかと予想する。たとえば、海外の映画や音楽を愉しむさい、(きっとこういうことを言っているのだ!)という予感や想像はときにある種の感興を引き起こすものではないだろうか?

 

 移住、移民という言葉が出てきたがこの前『ナイトオンザプラネット』を彼女と観てきて、5つある話のなかでもニューヨークとパリの話はタクシードライバーが移民である。この映画は21年のレトロスペクティブで初めて観たので三年ぶり二度目の鑑賞だった。なんだか1つ目のロサンジェルスの話に出てくるかっこよくてかわいいウィノナ・ライダーが映画のイメージにおいて先行しすぎているような気がするが、私が好きな話はヘルムートとヨーヨーとアンジェラが出てくるニューヨークの話と酔っ払いトリオを乗客とするヘルシンキの話だ。

 ニューヨークの話ではヘルムートとヨーヨーの会話がすべて良く、英語をぜんぶ覚えたいくらいである。特に別れ際の次のセリフが好きだ。

 

All right. You're gonna make the opposite of every direction we made to get here.

So if - if we made a right, then this time you're gonna make a left.

And if we made a left, you're gonna make a right.

そう。ここまで来た道を反対に行けばいい。右に曲がったところを今度は左に曲がるんだ。右に曲がったところは左へ。

[中略]

Helmet, look. You go down there, you make a right, then-

When you get to that wide street -

いいかヘルメット。まっすぐ行くだろ、そして右に曲がる、あの広い道に出るから...

  you know, that - that - that big one?

  あの広い道?

- Yeah. You're just gonna stop and ask somebody.

そう、そして...、車を止めてあとは誰かに訊け。

 

映像で見ると、最後のセリフのところで「まあいいや」って感じになっているヨーヨーの様子がなんとも愛らしい。そして何より You're gonna make the opposite of every direction we made to get here. とは、さまざまな場合に通用するとても良い励ましの言葉のように思っている。

 このあとヘルムートは相変わらずのガタガタした運転でヨーヨーの視界から遠ざかってしまうのだが、そのあとの数分間(数十秒間だろうか?)がこの映画の中でもっとも素晴らしい瞬間のひとつだと思われる。

 ヘルシンキの話では、「アキ」という不運が立て続けに起こったらしい泥酔状態の男を含めた三人組を「ミカ」というおっちゃんがタクシーに乗せる。アキの友人二人ももちろん酔っぱらっており、タクシーのなかでくだらない小競り合いが絶えない。ミカは自分の子どもに関する悲壮な話を語るのだが、その友人二人はすっかりミカの話に聞き入って大人しくなり、ミカに同情し始める。あんなにうるさく暴れていたのに、オーバーなくらいにしんみりとしてしまったこのときの男たちの「とっつぁん....、オレよぉ...、わかるぜぇ.....(泣)」みたいな身振りが私はあまりにも好きで、めちゃくちゃ笑ってしまう。しんみりしたまま彼らの住宅地にタクシーは到着し、友人二人はミカを励まし、帰宅する。友人たちがタクシーから消え、ずっと昏倒していたアキがやっと起き上がる。アキは早朝の寒々とした路地に降ろされ、そのあとの数分間もまた、この映画の中でもっとも素晴らしい、私が好きである瞬間である。

 

 映画館からの帰り道で、Night on Earthという原題にはearthに冠詞が付いていないということが話題になった。on earthで「世界中の」という意味なのだろうがearthに冠詞がついていない理由を説明しているわけではなくて、英語を(狭い意味での)専門にしている人はこういうことを理屈で説明できるんだろうなあと思い尊敬の念を抱く。二月ももうおしまい。感動的なメソポタミアを40回言えなくてもいいから、自分が感じ考えたことを良い声で発話するために日々を勤しんでいきたいと思っております。